それをそのようにせしめたものが、自分の方にあるのを感じた悲しさにちがいなかった。また、これでもし自分が千鶴子の場合だったらどうしただろうかと、そう思うと、どんなに相手を愛している場合でも、もし自分だったら、――矢代はそこをもう考えることが出来なかった。それは恐しいことを予想せしめてきりのないことだった。そしで、おそらくそのときには、自分ならむしろ死を選ぶかもしれない信仰上の破滅だった。たしかに根を切りとられた切っ羽つまった苦しさが、突如胸のどこかに撃ち返って来て彼は涙がこぼれた。
「自分はこの女性をとうとう責め殺した。」
 矢代はまたそう思うと、一層涙がとまらなそうになり、ついバスルームの中へ這入っていって、そこで手を水で冷やして出て来てから窓際へ立った。本能寺の上に出ている星が一つ強い光を放っていた。彼はその星を見ているうち気持が透明に冷え落ちていくのを感じた。力が急に無くなっていくようだった。何か寥しい、あきらめに似た、今までまだ感じたこともないさめ果てた空しい気持だった。
「あそこの家のすぐ裏に、本能寺があるんですよ。」
 窓へ片肩をよせ、無意味に矢代は斜め左方を指差しつつも、どこかへ一人でたち去って行くような、もの寥しさをますます感じた。それはまったく予期しない寂寥だった。
「どこ。」
 窓際へよって来ても、理解しかねた千鶴子はきょとんとして、別に寺を見たい様子もなく、会館からはね出てくる人の流れを眺め、今夜は東京から来た音楽家の演奏会があったその崩れだと告げた。矢代は結婚のことはもう考えたくはなかった。それにしても自分の心が自分の手でも掴まれぬ怨めしさは、今に限らぬことだったが、二人の間から擦りぬけては流れ出ていくこの仕業は、何ものの誘いであろうかと矢代は星から眼が離れなかった。
「明日はもう帰らなきゃいけないでしょう。」
「ええ。でも、私はいつでもいいんですの。」
「見残した庭も沢山あるんだが、――」
 今の自分は寺の庭も見たくはないと思った。一本の笛の音が澄み透って来るような空の眺めだった。千鶴子は上唇に細かい汗を浮かし、何か云いながら、ときどき身体を廻し、落ちつかなげに下の通りを見降ろしたり、腕の時計を覗いて見たりした。その様子は窓際で戯れている蝶に似た身軽さで、どこか断ち切られたもののひらひら舞う姿に見え、矢代には悲しかった。
 しかし、考えれば、何んという喜びだろうか、とまた彼は思い直すのだった。希ってもないときが来たのに、それにどう仕様もないあわれなものの打ちよせて来た感じに受けとっている自分を思うと、実際、あの夜席のときの舞妓のごとく、今は金扇をひろげてひとさし彼も舞いたくなってくるのだった。
「人間五十年、化転の内をくらぶれば、夢まぼろしのごとくなり――」
 桶狭間の決戦にのぞみ信長の舞った敦盛の謡いが、本能寺を見ている矢代の口にも自然にのぼって来て、躊躇するものの轡すべてを彼は切り落そうとし、馬鞍を叩く手つきで窓枠の縁を打った。


 京都から帰って来ても、矢代はまだそのまま旅先の姿勢を変えなかった。どこからか号令の下ってくるのを待っているような気持ちの姿勢で、そうして父の遺品の中に坐ってみているのも、家が父から自分に移り代ってくる、生涯に二度とない大切な時だからだと思った。このような時は周囲からとやかく自分に触られるのが彼には辛かった。青葉がおもい重なりを見せた中から、朴の葉だけ水中の羽根のように端正な姿を保っているのが、朝起きた矢代を何より慰めてくれたりした。こんな日のある朝である。前から矢代の家の茶の間と風呂場の角に柱があって、そこに一分ばかりの小さな穴があいていた。その穴から白蟻が噴きでて来た。ぶよぶよした半透明の翅のある蟻で、初めは数十疋のものがしだいに数を増し数千疋の大群となったかと思うと見るまに一面煙のように溢れ、あたりの壁や柱に附着した。
 今まで彼はこのような事は一度も見たことがなかった。うす靄の軽くかかった好天の日で、日に透けると白蟻の翅は美しく薄緑に光った。まだ生れて以来使ってみたことのない翅と見え、蟻はそのままねばりついたような翅のよじれを解きほごす準備にかかっているらしかった。
 動き廻るわけでもなく、じっと附着して自分の位置を守り、整えた翅をただかすかにふるわせてみているだけである。
 別に大事件というわけではないが、家という建物自体に起った出来事としては、この蟻の大群は近来稀な現象といってよかった。
「これはどうだろう。この部屋全部壊して、一度建てかえなくちゃ、――いつの間にやら土台に巣があったんだなア。」と矢代は洗面に降りるとき立って母に云った。
「もう、はたいても、はたいても、幾らでも出てくるんですよ。」
 あまりの見事さにしばらくは珍らしく、眺めていたい気持ちで母
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