僕はただ石の数だと思ってシャッタを切ったね。」
 塩野の無造作にそういうのを矢代は面白いと思って笑った。
「それでいいんでしょう。とにかく、夢を無くした数学が、逆に一番夢を人間に与えるようなものじゃないでしょうか。」
 と、越尾は、浅黒い顔にも美術史に捉われぬ、含蓄のある微笑を洩して塩野を見た。
「これで日本人にも、ああいう石から出て来た数学の伝統といった風なものは、あるんだろうね。それでなければ、これだけの都が、千年も仏教に苦しんだ意味がないよ。ただの石じゃね。」由吉は真顔を大きく上げて一寸矢代の方を見ると、急に、「あ、そうそう、この話はこの先生に聞いたんだが。」と云って槙三の方を照れた顎でさし、「何んとかいう数学者だったなあれは、クロネッカァといったっけ、この人の数学に、青春の夢という名高い定理があるんだそうだ。何んでもそれは、眠っているとき夢の中で考えついた定理で、起きてから、も一度その定理を証明しようと思ったところが、どうしても出来ないんだそうだ。夢の中で完全に出来たものが、起きて出来ないなんて口惜しいもんだから、今度は弟子の優秀なのを皆集めてやらしてみても、誰にも出来ないんだね。そうすると、それを日本の高木貞治、――あの数学の博士がわけもなく証明してのけたというんだよ。」
 日本人の能力のなかにも、そういう数学的に卓越した遺伝が蓄積されているということを、龍安寺の石庭からの暗示として、由吉は云いたかったものだろうが、それとは別に、矢代は、自分が去年千鶴子と結婚した夢を見た日のことをふと思い出すのだった。そしてその夢の事実になろうとしている時が刻刻にせまっていることも身に感じ、ふと山を仰ぐと、月が東山のふくれた腰の部分に頭を出した。顔を揃えた河原の石がそれぞれまるく静に水中に浸っていて、月の光に綾目を乱した川水が、ひたひた部屋の中までさし拡って来るようだった。
「外人の青春の夢を、日本人が解いたというのは、なかなか暗示的でいいね。」
 と佐佐は嬉しそうに河原の方を見た。矢代は月を仰ぎながら、京都文明の永い歴史の中に顕れた多くの月も、今みるこの山のそこから、こうして出たものだろうと思い、庭に石を置くときも、夢窓国師は自分の名の含む想いとして、一度は月を考慮に描いたことだろうと推察した。
「数学の専門家はどうですか、龍安寺の庭について、別の意見があるでしょう。」
 矢代は今まで黙って隅で笑っていた槙三に訊ねてみた。実は、さきから矢代はその機会をひそかに待っていたのだった。槙三は彼から訊ねられると、いつもの明瞭な口調で躊躇の風もなくすぐ答えた。
「僕はああいう、はっきりした簡素な庭を見せられますと、自分は日ごろ迷っていた問題に、直面した感じになるのですよ。それはですね、人間の考えというものは、煎じ詰めると、AでなければBで、その二つのどちらかの中へ入りましょう、それはどんな人間の、どんな考えでもですが、――御存じでしょうが、数学ではこれを、排中律と呼んでこの定律を認めておりますけれども、あの石の庭を作った人の頭も、そんな排中律と同様な形而上の世界と、形而下の世界との境界に、石の碑を記念としてうち樹てたかったんじゃないかと、ふとそんなことを考えてみたのですよ。」
 そこまで槙三が云ったとき、廊下の方から舞妓が三人入って来て、揃って畳に両手をつき正しい挨拶をした。髪に挿した簪のびらびらが、月を映して揺れなびき烈しい眩ゆさで光りつづけた。一同の者らは一寸その方を向いたが、槙三の話はもう皆の頭の深部へ突き刺さっていたらしく、誰の表情も崩れようとしなかった。
「そのお説は、世の中で一番難しい問題じゃないですか。まさか、あの庭の石にそんなものまであるとは思えないけれども、新説としては、たしかに今までにないものですね。」
 と越尾は、今まで一度も存在さえ考えなかった彼の方へ向きかかって、若い槙三の顔を注意し始めたようだった。
「僕のはただ数学上のこととして云ったのですが、数学では、どうしてもAはBとは違うので、同じではあり得ないのです。しかし、あの庭の石が、京都文明の絶頂を示すものなら、勿論、この排中律という認識上の頂きの苦悶が何らかの形で、石の根に埋められていなければならぬものだと、僕は思うのです。もしそうでなかったら、そこに含まれた文明というものは、頂上でも何んでもない、ただの南洋土人の玩弄する、石と変りないと思いますね。」
 和いだ云い方ながらも、槙三の言は鋭く越尾の史観を刺していた。
「どうも困ったね、話がAとBとに分れて来たぞ。」
 と由吉は後ろへ反って、ひとり、舞妓の並んだ顔を無遠慮にじろじろ見較べた。
「しかし、龍安寺が禅寺だといったところで、そのころ、近代数学がそんな発達をしていたとは思えないんだから、やはり、も少し違う石
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