でしょう。あのころは、石を生きものと見たのですからね。」こう云ってから越尾は、「これは僕のは、Bかな。」と由吉を見て笑い返した。
「俺はAでもなけりゃ、Bでもないね。そんなの、一つぐらいあったって、良かりそうなもんじゃないか。ないのかい。」と由吉は槙三に対って訊ねた。
「それは同じ問題で、Aの公理も正しければ、Bの公理も正しいということは、たしかにあるのですよ。例えば、御存じの二つの平行線は相交らぬという公理も、無限の彼方ではその平行線は相交るという公理だとか、または、平面上の三角形の内角の和は二直角なりという公理も、球面上ではそうではない、といった風な公理になるとか、とにかく、どっちも正しくて、間違いだとは誰も云い得ないことですよ。しかし、AとBとは違うという、この排中律の定律に従いますと、数学とは限らず、僕らや皆さんのどんな考えにしてもですね、正しいと考えられていることが、厳密に考えれば、どちらか一方が不正になるという定律にまでなるのですから、――ともかく、数学で一番難しいのはそれなんです。つまり。論理的にはどっちも正しいに拘らず、一方が必ず間違いだという論法になると、世の中の一切のことも同様二つに別れて相争うにちがいないのです。これはどう仕様もありませんね。」
一同黙って言葉を発しなかった。屏風の金色を映した舞妓の管だけ、ひとり、さざめく水のようにひらひら黒髪の中で揺れていた。
それは絶えまなく繊細にゆらめきつづけ、囁き交している部屋のひそやかな呼吸にも似て見えた。
「夢窓国師は吉野方と高氏と、両方から来いと引っ張り廻されたんだから、龍安寺の石も、そんな定律の苦しみをひそめているかもしれないなア。」
と矢代は部屋の中へ這入って来つつ云った。そう云いながらも、彼は自分と千鶴子の間に横たわっている宗教の相違や、パリ以来、久慈と衝突しつづけた文明観の解釈の相違についてなど、いびつな心の違いとなってまた泥んで来たりした。
「しかし、槙三君のようなことが、実際上の数学で正しいとなると、一寸こ奴、困ったことになるね。」と塩野は頭を自棄に掻きあげた。「Aから見ればBが不正で、Bから見ればAが不正なら、世の中で正しいことって何一つも無くなるわけじゃないか。ね。」
「ですから、僕は排中律の定律というものは、必ずどこかに間違いがあると思うのです。もっとも、この定律を認めない数学者もおりますが、理論的にこれを認めないとするには、これは非常に厄介なことで、今のところ殆ど不可能といっていいのですよ。けれども、今までの人智というものが、ここで停頓しているからには、何か人間は、大混乱に落ち入る準備をしているようなものじゃないか、といった風な危惧を感じるのです。それは、そうならざるを得ないんですからね。」
槙三のそういう後ろの隅の方で、舞妓たちはより固ったまま指を折り、ひそひそ何か話していた。暖かった部屋の空気が川水に冷えた風に変り、三味線の低い音を流して来る。その対岸の柳の葉の間を灯をつけた電車が辷っていった。
「おい、ひとつ踊を見せてくれ。」
と、由吉は、弟の槙三が一同を場に似合わぬ理窟ばった苦しみに、引き摺りこんだ責任を感じたらしく、突然そう云って舞妓たちの首を覗きこんだ。彼の一言でぱッと座敷の頭は皆あがり、舞妓たちはそれぞれ別れて席についた。浮き立ち上った、大幅の紅い襟の間に挟まった槙三は、とり残された形で、珍らしそうに舞妓の頭を眺めていた。中央から裂けた長い帯を揺り揺り、千鶴子の傍へ立って来た舞妓が、月を仰いでまた指を折った。
「あら、秀菊さん、そんなええ所で作らはる、狡やなア。」
新しく縁へ出て来た妓が、同様にまた並ぶと、「東山、東山、」と呟きながら、これも指を折り始めた。何をするのかと矢代が、その鶴千代という妓に訊ねると、このごろは誰も俳句の勉強を命じられているのだとのことだった。
「みんな俳句作るのか、そいつは油断がならぬぞ。」
由吉も背を延ばして山を仰いだ。正面に月をうけて立った舞妓たちの簪のびらびらが、せせらぐ川波の中で揺れていてまだ宵らしくつづいた川向うの灯が、橋を渡る夥しい人の足を浮きあがらせて賑かだった。
「向う見て寝たる月夜の東山。」と秀菊が云って笑った。
「けったいな俳句やなア。蒲団きてやわ。」と傍の鶴千代が肩をつついた。
「そうかて、顔隠してやすやないの。」
欄干にふれてだらりと垂れた二本の帯の長い裾が、しなやかに打ち合ったり戯れたりした。川水が胴の間を満たし、洗い清める流れで遠くまで月に踊っていた。白牡丹と藤の花のおもい簪に、菊模様の襟を高く立てた、仙鶴という舞妓が槙三の傍にひとり残っていて、舞扇を襟から抜きとり、
「こないだ先生がね、夜桜の句お作りなさいとお云いやしたの、そしたら秀菊さんね、夜桜や隣り
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