感得興奮を顕わすさまも了解できるのであった。
「何んだか、僕ひとり落第したみたいで、さみしいね。」
矢代はさきからの自分の身勝手な冷たさをようやく後悔し、頑くなな心の崩れていく咽喉にスープを流した。
食事がすんでから暫くして、一行は案内役の越尾から招待をうけていて、ある旗亭へ出かけることになっていた。誘われるまま矢代も出席することにした。鴨川の流れの傍で、二階の広間に通されたときには、うつろう川水に胸が冷やされ、連日の疲労がふたたび流れ出てきたようだった。
真正面に東山の連りが見え、右手の膨らんだ峯の部分が、間もなく昇る月の在りかを示していて、下から射しあがった光のなかに雲の断片が浮いていた。川に向いた縁先の籐椅子に矢代はかけると、父の納骨を尽くすませた気安さに、初めてネクタイを解きほどいたくつろぎを覚え、思うさま山、川、雲を見あげた。両足も欄干の横桟にかけのばし、両手も首の後ろで組んだ反り身になって見上げる山は、たっぷりとした檜舞台にいるような、鷹揚で豊かな眺めだった。欲をいえば、彼はいま暫く誰からも放れてここにこうしてひとりいたかった。近くの人声も遠くから聞えて来るようで、ぼんやりしたひとときの休息だったが、すぐ欄干に手をかけ、傍へ来た千鶴子は、
「東野さんの奥さん、お悪いらしいんですのよ。」
とさし覗くように低く云った。さきから東野の姿の見えないのもそういう理由かと彼は思った。前から東野夫人の危険な状態を聞き知っていた矢代には、「悪いらしい」も絶望の意でひびき、山の端の明るみが一層冴えせまって眼に映った。
「じゃ、駄目だな。奥さん。」
「何んですか、昨日あわてて須磨へお帰りになりましたの。」
沢山寺を見て廻った直後のことなのでひとしお東野の感慨が生き、山の姿も、仏像の寝姿のように矢代には見えて来るのだった。
ぼッと滲みでたほの明るい、月出の空の真下がちょうど西大谷だった。先日、矢代が分骨にして父を納めたのはそこで、自然に彼の眼もそこから動かなかった。今こちらから見ると、空のそのほの明るさが、下に隠れた父の胸から揺れのぼって来るようで、月の出るのが待ちどおしかったが、仲人の東野の周囲で起っている崩れ傾くひびきを思うと、婚姻の夜を迎えようとしている矢代には、それも、ひと鞭あてて駈け去る日ごろの東野の厳しさに似て見えて、しんと胸にあたる痛さだった。
間もなく久慈が帰ってくるだろう。また真紀子の先夫の早坂も帰るだろう。そうすれば真紀子と久慈と早坂との交渉に、さらに東野の加わってくることも想像にかたくはない折から、東野夫人の容態の悪化であった。
「真紀子さん、苦労だなア。」
今にも出そうで出ない月を見ながら、矢代のこう呟いているとき、部屋の中では、由吉や塩野たちが、見て来た寺の疑問の点について、それぞれ案内役の越尾に対い質問に熱心であった。やはり誰も問題にする龍安寺の石庭に関することが多く、越尾は、近代庭園の専門家がひそかにその庭の石の間隔を計ってみたこと、そして、縦横寸分の狂いなく近代庭園法の数学に合致していたと告白したことや、初のころ石庭に糸桜が一本植っていたのに、庭に一本の樹は滅亡の家相だという理由で切られたことなど、矢代に初耳のこと多く、低声に語るのが廊下にまで聞えた。
「しかし、とにかく、日本の庭園としては、あの庭は絶頂を極めたもので、あれ以後の庭はみな下り坂ですからね。絶頂というものの観念は、やはり僕らには分りませんよ。何しろ、京都文明の頂上が、あの石だといってもいいんですから。」
案内役はこう云って、謙遜に自分の見方にもピリオッドを打つことを忘れなかった。矢代には月よりその石の話が面白くなった。
「石が絶頂なら造作はない。ひとつ極めようじゃないか。」
と、由吉は云って皆をまた笑わせたりした。
白砂を敷きつめた六十坪ほどの長方形の中に、十五ばかりの石を浮かせただけの龍安寺の庭を、矢代も二度ほど見たことがあった。寺の方丈の縁先ともいっていい曲り角の一隅のその庭には、一本の樹木もなく薄茶の塀をめぐらせてあるだけだったが、庭の外部に茂った鉾杉の見事な葉が重くたぶさのように垂れ下り、庭内の砂の白さがくっきりと際立って鮮やかだった。黄色い蝶が一ぴき砂の上を飛びたわむれていて、閑寂な姿の奔放自在に翻る春の日の一刻を、彼は手にとるように感じたことがあった。今も矢代はその光景を思い出し、絶頂は厳しく意味の滲みを拭きとった単調な姿をしているものだと思った。庭の作者は吉野朝時代の夢窓国師だといわれていることや、仏教もこの国師を頂点として堕落期に入ったことなどを思い合せ、龍安寺の石庭は、極めて暗示に富んだ文明の表情だと考えたりした。
「あの庭を島の浮んだ海だと云ったり、親子の虎が通る様子だと云ったり、いろいろ聞くが、
前へ
次へ
全293ページ中278ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
横光 利一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング