した。力も緊って来ない弛んだ千鶴子の手をまた彼は振った。
「僕もびっくりしてるんですが、とにかく、寝台があるというもんだから、逃せない。あなたはゆっくりしていて下さい。」
「じゃ、電報下さいね。」
千鶴子も初めて納得したらしく彼と並んで階下へ降りて来た。駅から遅く一人で戻るものの気苦労も際し、見送るという千鶴子を無理に回転戸のガラスの前で止めたまま、ひとり矢代は駅の方へ車を走らせた。
夜行にはまだ五分も間があった。躊躇することなくば急場の無理も調子よく行くものだと、ほッとした気持ちで、彼はすぐまた旅臭い寝台でひとり寝る準備にとりかかるのだった。このような急がしさも幾回もやったものだったが――彼はヨーロッパの見知らぬ山中での不意の乗り替えや、出発の際の危い佗びしさを思い出したりした。そして、落ちつくと初めてまた彼は旅への郷愁をつよく覚え、身にせまりよって来る空や水の、拡り流れてゆくさまを胸痛く惜しんで眠りがたかった。
次の日の朝眼を醒すともう関門海峡にかかっていた。矢代は海峡を渡り門司から裏九州の方へ支線を廻って行って、父の郷里の駅へ着いたのは、正午を少し過ぎたころだった。そこから再び一時間もバスに乗り、終点で停ってから、また約半路ほども歩かねばならなかった。前に彼の来たのは少年のころであったから、行く路傍もうろ覚えの程度でときどき目的の村と寺の名を尋ねた。海から続いて来ている川添いの土手には、背の高い芒がのび茂っていて眼路を遮った。桑畑や麦畑の間から山が見えて来たとき、矢代は鋤を肩にして通りかかった四十年配の農夫に、
「城山というのはどの山ですか。」
と訊ねてみた。低い幾つもの峯が平野の方へ延びて出ている中央の、一番高まった峰をさして農夫はあれだと答えた。寺へ着いてから村人たちの出て来てくれた後では、彼の想い描いていた場所をひとり静かに歩いてみることも出来そうになく、まだ知られぬ今の間に、彼は先祖の呼吸し、眺め暮して滅び散った館の跡を見て置きたいつもりであった。田の中の路の四つ辻の所に石地蔵があって、その傍に駄菓子屋が一軒見えた。矢代はそこで駄菓子とサイダーを買ってから、荷物のスーツを一時預かって貰うことにして、父の小さな骨箱だけを携げ山路を登っていった。
城山は馬蹄形の山容で、部厚い肩から両腕を前に延ばしたその真ん中の、首の位置にあたる場所に、谷から突っ立った高い平面を支えている石垣が望まれた。そして、遥かに右の後方には、突けばぽきりと折れそうな鋭い山が薄紫の頭を出していて、右手に廻った一帯の山脈は、屏風に似た岩石の成層で、角を明るく日光の中に照り出していた。
路はしだいに細まり険しくなった。矢代は汗をかきかき雑草を靴で踏み跨いで歩いた。屈曲して行く路の角角で下を見ると、青い実をつけた蔓草の中から海が見えたりした。柏や小松以外は灌木が多く山路は明るかった。矢代はいつか読んだある歌を思い出した。それは誰の歌だったかもう忘れたが、やはり父を亡くした人の歌で、いつか自分にもこのようなときが一度来るなと思い、そのときのことを想像して和歌の雑誌の中から、その一首だけを覚え込んだものである。多分作者は地方の無名の人だろう。
「葬路の山草茂み行きなづみ骨箱の軽さに哭かんとするも」
彼はこれを繰返し手にした骨箱を一寸振ってみながら、今自分にもそれが来ているのだと思った。
「山草茂み行きなづみ――」
実際それは丁度この歌の通りで、この文句をどこかに覚え込んでいたためばかりに、自然にこのようなことをしてみたかったのかもしれなかった。しかし、彼の父の墓場がまだどこだか分らず、それまで父と一緒に、先祖の憩う姿を彼は見て置きたかったまでにすぎなかった。
草の中に石垣が多くなった。そして、山の上近くかかったとき、枯松葉にまみれた巨石があたりに散乱している平坦な場所に出た。彼は薄青い乾いた苔のへばっている石の面へ鼻をつけたり、爪で掻いてみたりした。羊歯や蔦蔓の間から風化した切石が頭を擡げていた。肩の部分にあたる山梁を廻ると、小高い頭の位置の所に黒松が群がり茂っていて、梢をかすかに松籟の渡るのが聞えた。谷から迫りのぼって来ている石垣も崩れ曲み、今も石垣とは見えずゆるみ拡った隙間に朽葉や土が詰っていた。
矢代は頂きの石の上に腰を降ろして休んだ。黒松の幹の間から海の見えるのが、ここに棲ったものの今もなおする呼吸のように和いだ色だった。葛の葉や群る笹の起伏する上から遠ざかったむかしのころの面影を想像してみても、たしかにここには、父に繋がるもののかつて刻んだ労苦の痕跡が感じられた。彼は骨箱を松の枝にかけて暫く耳をすませてみた。しかし、今の矢代に通い匂って来るものは、峯から峯をわたって来る松風の音ばかりだった。それはもうむかしの響き轟いた矢筒の音
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