でもなければ、叫び斃れるものの声でもなく、肋骨の間を音もなく吹きぬけて行くような、冴えとおったうす寒い、人里はなれた光年の啾啾とした私語であった。
 矢代は城砦にあたる外廓の一つ向うに見える翼形の峯を瞶めた。そこは、陣形として山容を眺めているうちにも、自然に彼の視線を牽きよせる高みの場所だったからであるが、何ぜともなく彼はそこを中心に、攻め襲って来たカソリックの大友の軍勢を想像するのだった。その軍勢は裾の薄氷のような白い塩田の方から進んで来て、黄褐色の大軍のざわめきとなり、泡だちあがって城を包囲し、外廓の一翼のあの峯を占め取ると、そこへ日本で初めて使う大砲の筒口を据えつけた。そして、新鮮な一弾の谺するたびに、崩れ落ちる白壁の舞い立った場所は、おそらく自分のいるこのあたりの平坦な一角だったにちがいないと思った。雪崩のごとく逃げ迷うもの、飛び散るもの、刺し違えて斃れるもの、それらの乱れ叫ぶひまひまにも、そのとき、この松風の音だけはここで続いていたことだろう。
「あたし恐いわ。何ぜかしら恐いわ。」
 矢代がこの城の終末の歴史を告げた直後、こう千鶴子の云った愁いげな松濤の木椅子の上での言葉を、今も彼は思い出したりした。しかし、千鶴子の恐れているものも、この松風の音にひそんだ年月の声のようなものだろう。そして、遠くあのヨーロッパから押しうつって来たカソリックの波路も、この城を滅ぼし落したその筒口も、すべては今そこに見える日の射した海の色の上に浮んで来たものであろう。
 枝に吊った骨箱の白布が、黒松に浸み入った山気をひとり吸いとって寂然と静かなのが、見ている矢代の眼に痛く刺さって来た。彼はまたそのあたりを歩いてみた。石垣の隙から蜥蝪が一疋逃げ出すと、それも意味ありげで彼は立ち停って眺めた。


 山路を下る矢代の足首に草の実が附着して来た。灌木の葉越しに見えた海も消え代りにまばらな人家の障子が浮き出て来た。はっきりした鮮かさで、山影の薄日を吸った純白なその障子の糊あとを芯に、平行して来る田畑の線は見事だった。垂直に立ち揃った森の幹が、磨き減った胴緊りに細まり、何事か祈りのこもったような谷間の中の路である。
 矢代は苗の鋭く伸びた明晰な山峡のその路を、父の骨箱をさげ辿って行くうち寺へ着いた。二十数年にもなろうか、この寺の門は彼の見覚えのあるものだった。甍もゆるんだ傾きで、風雨に洗われた柱の木理も枯れ渋った隙を見せ、山道の嫩葉に触れた門から中の方に、白藤の風に靡くのが一本、静に過ぎる晩春の呼吸をしていた。
「まア、ようお帰り下さいました。さアさアどうぞ。」
 見たこともない寺の主婦は、気軽く彼を方丈へ上げた。矢代は寺への挨拶というものをこれまでにまだ経験したことのない旅客だと自分を思った。
「もっとお早うにお着きになることと思うてましたが、――まア、こんなむさ苦しいところで。」
 帰るべきものが帰って来たという鄭重さの籠った寺の主婦に対い、まだ矢代は、携えて来た父の骨箱の背後に隠れるような、なじみの移らぬお辞儀で、日に灼けた畳の膨みや仏壇のある本堂への通路を見た。
「どうもながらく父もわたしも、御無沙汰いたしておりまして相すみません。」
 父子二代がかりの彼の挨拶も、寺の主婦の円い笑顔を通して、本堂の仏壇へ云い詫びる気持ちの方が強かった。またさらにその仏壇の奥ふかく連った今さき降りて来たばかりの背後の城山に対って、頭を下げたい思いも深まって来るのだった。寺は裏の城山がカソリックのフランシスコ宗麟に踏み滅ぼされたのと一緒に、焼き払われ、時を見て再び建った諸寺のうち、今も残っている唯一の古寺であった。
「和尚さん今日は御在宅でしようか。」
 矢代の問いかける間もなく、急に表情を沈めた主婦は、揃えた手もとへ視線を落した。
「それが今日は命日でございまして、――あの去年主人が亡くなったんでございますよ。それでお客が今、奥に来ていて下さいますので、ごたごたいたしておりまして。」
「御命日ですか、今日は。」
 ここの和尚も矢代は見たことがなかった。主のない寺へあらためて挨拶するのにも、日の射している座敷の隅隅から、彼は自然にまだ見ぬその人を感じたい注意になった。客を両手にひかえた多忙な主婦は、中腰に奥の間へ消えたその後から、まだ中学を出たばかりの青年が一人出て来た。黒い僧服の下からきりりと締った白衣の裾の見える姿で悧発な眼鼻立ちも美しかったが、矢代への挨拶も固苦しく、押し黙ったままひょこりとお辞儀をするだけだった。
「この子が今の代になりましたので、どうぞ宜敷くお願いいたします。」
 黙り通している子の傍から母親は紹介をかね、そう云い添えて、矢代をまた奥の間へ導かせた。
 先客は二人でいずれも僧服を纏っていた。躑躅の花の攻めよせ合った奥庭を背にして、一人
前へ 次へ
全293ページ中269ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
横光 利一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング