。
「矢代さんお初つに来てくだすったのに、何も今夜は見つかりませんのよ。御免なさい。」
千鶴子のそう云うよりも、女中の手を煩さなかった心遣いが結構だったと矢代は思った。そして、隣室からへだたったこの部屋の潤いの籠った明るさは、久しぶりに千鶴子と二人で自分の部屋に帰ったときの、パリのある夜の寛ぎに似たものを思い出し、そのときの灯の匂いを嗅ぎ出すように首をのんびりと廻しあたりを見た。すると、朝からの休む暇もなかった気疲れも加わって、ふと彼は、こんなとき二人がもし結婚をすれば、もう今の匂やかなものの通う路は断ち消えて無くなりそうな恐れも覚えて来るのだった。
「今夜の東野さんは凄かったね。本当の平和はもう来るぞ。と云ったときの、あの人の顔ったら、なかったぜ。」と佐佐は云って生菓子を一つ摘まんだ。
「しかし、あの久木男爵も面白かったよ。御幣の形と射影幾何との説明を、港港を船で行くといったところなんて、ただの鼠の爺さんじゃ、ちょっと出来ない芸当だよ。僕はあのとき、つい悪いことを思い出してね、よっぽど云おうかなと思ったんだが、それも悪くてやめちゃった。あの爺さんには、パリで千鶴子さんと僕と大石とは困らせられたんだからなア。」と塩野は今ごろ急に意外なことを云い出して苦笑した。
「どうして。」千鶴子も矢代同様急には解せぬ面持ちで訊ねた。
「ほら、あのパリの大蔵大臣邸で夜会があったでしょうが。あのときには、僕ら、久木男爵とこの鮭の缶詰を輸出させるのに骨折った夜会だったのさ。フランスの法律を動かそうってんだから、何しろ相手は鉄壁の陣営だよ。それを二三日前から徹夜の作戦で、とうとう漕ぎつけたのは良いが、暫くはお蔭で神経衰弱さ。しかし、思い出すなア、あの夜の苦労は。」
塩野の云うのを聞いているうち、矢代は千鶴子とチロルを早く切り上げてパリへ戻った原因の一つも、塩野からその夜会へ出席を急がれていた千鶴子の都合のためでもあったと思った。それにまた、彼の悩まされた書記官のピエールと千鶴子とのオペラでの一件のことにしても、同様に大臣邸のその夜会が始まりのようでもあったが、いずれもそれらの起りはみな、塩野の今の言葉で、初めて矢代にはよく頷けて来ることばかりだった。そして、
「何んだ、あれがね。」と彼も思わずそう云ったまま暫く塩野の顔から眼が放れなかったが、実際、自分にとっては重なる苦楽の集るところ
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