に、何も知らず男爵はいたものだと、むしろ今は、人には語れぬ鬼気こもる縁の深さにますます彼は愕くのみだった。
「あれがね、でもないよ。君は知らないからね。僕たちのあのときの苦労は。」と塩野は塩野で、またそのために思い起すことも多いらしかった。
「いや、君たちのお蔭で、僕も苦労をさせられる羽目になったのさ。」と矢代も今は負けずに云って笑った。そして、千鶴子に対い少し皮肉に出たくなって、
「その後ピエール氏から便りはありませんか。」と訊ねてみた。
「一度。」と千鶴子は肩を一寸すくめた表情で答えると、「お見せしてよ、後で。」と云って、ビールの栓を抜く手つきもいつもとは違い、争われぬなまめいた形になるのだった。何かそれは復讐めいた色艶にさえ矢代は感じ、一寸息苦しい思いになって俄に打ち返す言葉も出なかった。
「そうそう、ピエールさんといえば、たしかあの人、ひょっとすると日本へもう来るころかもしれないよ。日本へ行くほど愉しいことはないと、云ってたからね。あの人は日本を好きで仕様がないのだよ。」
塩野はまだ矢代と千鶴子との間に今も生じている微妙な気持ちの反り合いには、少しも気付かぬ無頓着さで云うのだった。
「いや、もうあの人、来ない方がいいよ。」と矢代は、ひと息の苦しさも愉しみに擦りかえて千鶴子の顔を眺めた。
「そんなこと仰言らずに、めし上れ。」
千鶴子は矢代のコップにビールを注いだが、こういうときのほんの少しの勝ち越しも、いつか男をたしなめる優雅な手つきにするすべさえ加わり、それも自分の見知らぬ夜会で養われて来たものかと、少し赧らんだ千鶴子の眼もとに泛んで来る微笑を、矢代は今さらにおどろき振り返った。
「じゃ、この一ぱいだけはピエール氏のために。後はもう駄目だ。」矢代は先ずこのとき一ぱい飲んで、塩野に対い、
「この千鶴子さんはね君、ピエール氏が非常に好きだったんだよ。君はいつも傍にいたくせに、写真なんて機械に気を取られて、知らないんだろう。」と云って笑った。
「ピエール氏が好きか、を好きか、どっちだ。」
「さア、それはこの人に聞かなくちゃ。」
「え、どっち千鶴子ちゃん。」と塩野は、またこのようなことに限っては稀な稚拙さで、顔を前に突き出して訊ねた。
「さア、どうかしら。」
特に真面目に聞くべきことでも無論なく、今は過ぎ去ったこととして軽軽と取り扱う千鶴子の返事に、矢代は、こ
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