来た。わけても赤十字の動きが鮮やかに眼につくようになってからは、山野から出発していく馬の嘶きが次第に高くなって来た。
 陣太鼓の遠くから鳴りとどろいて来るようなこんな暑さに拘らず、それでも、久しく平和に馴れた人人の表情には、まだ調子の揃わぬものがあるようだった。戦争というには厳しさが足りず、事変というには底鳴り異様なうちに、今度は上海の周囲に火が飛んだ。久慈が印度洋廻りで東京へ帰って来たのは、丁度こういうときであった。彼は東京の知人たち誰にも到着を報ぜず瓢然と戻って来たのである。
 矢代が久慈の帰ったことを聞いたのは塩野からで、塩野は大石から聞いたという。誰にも報ぜず、人に会うことをも避けている久慈のその気持ちも、矢代は察することが出来たが、介意わず彼を引き出すようにしなければ、久慈に限りそのまま老い崩れてしまいそうな懸念もあって、すぐ矢代は彼に速達を出した。多摩川の傍だと聞いていた彼の家へ直接出かけて行っても良いとはいえ、それにはこちらの想像する以上に困ったこともあるかも知れず、先ず今は速達だけにしたのである。それに対してしばらく返事のなかったとき、ある日矢代の留守に久慈が訪ねて来たと、妹の幸子が告げて云った。
「妙な方だわあの人。一度さようならと仰言って外へ出てから、また戻っていらして、今度上海へ行くことになりましたから、そう仰言って下さいって。」
「何も妙なことないね。」
「それが、どことなくおかしいのよ。そうね。」
 幸子は表現に詰ったもどかしげな表情で、
「何んといったらいいんでしょう。ハイカラなくせに、ちょっと図図しいの。でも、これはひどく云ってみてのことだわ。」
 矢代には久慈の変化の仕方がそれで分ったようだった。いきなり相手の中へ踏みこむ癖も、多少は前から久慈にあったところへ、人を瞶める眼に、調節を忘れた異国風が出たのであろう。しかし、あれほど争いつづけた彼が訪ねて来てくれたことは、二人の争いが互に無意味に終らず、また無事落ち合えた思いで矢代は喜びを感じるのだった。思ってみても、久慈とは自分は事ごとに争ったものだと、矢代はその夜また考え直した。それは熱病のようにどちらにも襲いかかり、争いすなわち生活のようなものだった。二人にとってもしあの争いがなかったら、生活の香のする活き活きしたものは、あの旅では得られなかったかもしれない。異国での二人の奇怪な修業
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