ふと思い出した。壁にはミレーの晩鐘の版画がかかっていた。私は日ごろからこのバルビゾン派の画類には一度も感動を覚えたことがなかったに拘らず、野末の向うに見える寺院の尖塔を背景に、黙祷をささげている若い夫婦の農衣姿の慎しやかな美しさに、突然われを忘れた感動を覚えたことがあった。私は自分の生活して来た記憶の絵の中から、これと似たことがどこにあったかと考えてみたが、暫くは、容易に私には泛ばなかった。しかし、何ぜまたこれほどの簡単な幸福と清浄さが私にも人にも得られないのだろうか。何の特殊な難しさでもないものをと私はそのとき考え込んだ。良い宗教がないからか。自分らそれぞれの不心得のためからか。それとも世の中というものの成立が悪いからというべきか。おそらくそんなことではないだろう。いま、一寸首を縮めて私を見た妻の眼差は、実は、そういう幸福に似たものではなかったろうか。
人は幸福の海の上に浮いている舟のようで、腹だけ水につけ、頭を水から上げているから、無常の風に面を打たれて漂うのかもしれないと思った。
十月――日
別家の久左衛門の長男の嫁は、四つになる一粒種の男の子をこの五月に亡くして以来、次
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