を探求して明示することか、という二通の論証方法があるわけだが、しかし、それはともかく、人間は生活せねばならぬという条件の上で、これを開明する必要に迫られるとなると、過去や未来を考えても駄目だ。一応は現在を考えてみるということ、いつも生活の実質は現在にあるのだから、何よりも今を見ることが一番だ。今は、農民と労働者は王侯のごときものである。これに対して頭の上るものはない。すでに現在がかくのごとく民主主義に徹底しているときはまたとなかったが、ただ今は、これに統一を与える精神がないだけだ。みな誰も一番探しているものは、米と精神だのに、これを紊《みだ》しているのは金である。しかし、不思議なことに、米というものは、少し手に入ると、忽ち人はこれを忘れてしまうのが習慣だ。有っても無くてもどうでも良いものの一つの中で、長らく人間にとって一番どうでも良かったものは、米と神とだ。云い換えるなら、物と精神の二つの代表である。この二つを忘れて人間はどうなるか、というところまで来てみて、やっと米だけ、物だけが眼についた。今度は何んだって物さえあれば、追っかけ引っかけするうちに、物はなくなる。次ぎには精神。しかし、これだけはどこにあるのか今もって分らない。分らなくなると、一つの顔を悪いという。誰も彼もその一つの顔で血刀を拭こうとする。

 九月――日
 稲刈りがすすんでいる。海浜の村から老婆の利枝がやって来る。沖縄で戦死した末子の霊を呼び出してもらいに、例の仏の口を聞きに来たのだが、ついでに、妹の久左衛門の妻に米の相談にも来たのである。空の雲行を見上げながら、姉妹揃って仏の口のいる駅の方へ出かけて行く姿が見える。姉は七十、妹は六十一だ。妹の方は死んだ孫に会いたくて出かけて行くのだが、初盆以来、初めて孫に会えるのでいそいそとしている。秋空はよく晴れ、稲の穂が路の両側へ伏しなびき、遠山の重なる線がいのち毛で描かれた波のようだ。生きながら霊魂の歩くには適した美しい黄金色の耀く路一本を、間もなく自分が死ねば、こうして子供らも会いに来てくれるにちがいないと信じきった二人の姿だ。秋風が吹く。

 私は沼の周囲の路をひとり歩いてみる。今朝鶴岡まで早く出て行った妻が帰って来るところだ。汽車が遠くの稲の中を通り過ぎてから三十分もたっている。とすると、あの汽車に相違ない。半里もある駅からの野路を、向うから黒い一点の影がただ一つ動いて来る。多分あれだろうと見ながら距離を縮めて行くうち、向うもそうだろうと思う風で近よって来る。見わたす広い平野の中で、自分に食わせる食物をせっせと探してくれている一人の人間が、あれかと思う。無能な自分と一緒に生活したのが彼女の運のつきだ。向うも一人、こちらも一人でだんだん照れた表情がはっきりして来たとき、ちょうど木橋の上でばったり会った。
「そうだと思ったわ。ふふふ。」
 風呂敷の端から南瓜の肌をはみ出させて妻が笑う。川の水が二人の足下を流れている。二十年も前のある日、まだ結婚もしていなかったときのこと、こんなことが一度あったようにふと思ったが、どちらも焔に追いまくられ、もうひどく疲れている二人になった。

 九月――日
 燐光のように鋭く黄色に光る黒猫の眼。人のいない部屋の蝿の群り飛ぶ中でひっそりと鳴る柱時計。翳《かげ》ったり射したりする日光。格子の間から並べた南瓜の朱に射しこむ光線。風がぴたりと停まるたびに、炉にかかった薬鑵が妙に鳴り出しては沸いてくる。

 村では、ある家の稲の早い田を共同で借り、稲刈を共同でして、自分の田の稲刈までの食い量に当てるため、今日からそこでとれた米の精米にかかっている。連日の雨で膝まで泥に没する稲刈だが、夜など精米所の電光の下では、凛凛たる物具つけた武士のように勇みたった農夫らの勢揃いだ。どっかへ夜討ちに出かける前刻のような凄じい沈黙で並んでいる。一年一度の最高潮に達した緊張にちがいない。実に美しい姿で、一ぷくの煙草を美味そうに夜気の中へ吐き流している若ものの姿も見えた。

 十月――日
 農家の竈《かまど》にはどこのも少し新米が入った。これは炊き増えしないためでもあって、四人で一日二升五合で足りていた参右衛門の家では、新米になった今日から四升を少し超過して、まだ不足だとの事だ。
 朝夕はうす寒く、火鉢に炭火が要るようになったが、この村には薪ばかりで炭がどこにもなく、消炭ばかりだ。

 新米のみずみずしい重さ、しっとりと手に受けたときの湿り具合、蝋色のほの明るい光沢の底からぼっと曙がさして来る。たしかに新米のこの匂いには抒情がある。無限の歴史のうなりが波の音のように掌の上に乗りうつって来て、私は感傷的になるのだが。
「ああ、もう日本の米には生命力がなくなった。こん度の戦争は敗けだ。」
 と、そんなに呟いた玄米研究家が
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