たると、忽《たちま》ち混乱する考えというもの――習慣になった考えで、習慣ならざることについて考える狼狽さ、これが今の私や人人に起っていて、そのまま有耶無耶に捨て去り、またどこかへかき消えていこうとしている現在というもの。なかなか答案は難儀になった。百五十倍の難儀さだが、しかし、まアせいぜい二十倍ぐらいの難儀さとしてすませて置きたい頭の性格。――しかも、事実は百五十倍の複雑さで展開しているという場合に、人人はいったいいかなることを仕様というのだろうか。

 とにかく、人が休息したくてたまらぬときに、そこを見込んで働きたくて仕方のないのがいることも事実である。東京からの通信では、米一升が六十円になったという。誰がどこで幾らで売ったか、いつ、どこへ、幾らで買いに来たか、という噂について、日夜耳を聳立《そばだ》てている農民に、こんな東京の話は聞かされたものではない。十円でびっくりしているものらに、六十円の真相を告げては、――それも、ただほんの噂だけで米の値がそれだけ跳ねあがる喜びに、呆然としているときだ。どこでも、人の集りの中では、話はひそひそ話ばかりである。私らの足音がすると、ぴたりと話は停り炉の火ばかりめらめら燃えている。草の中に跼み込み、何か呟きあっている二人ものがあるかと思うと、汚ならしい笑顔で、薄黄色い歯を出して外っ方を向く。

 稲刈りが始まったので、村の農家から狙われていた別家久左衛門の米倉も、ようやく視線を解かれた形だが、ほっとする暇もなく、今度は野菜専門に作っていた遠方の村の親戚から狙われ出した。暴風で野菜がことごとく※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]《も》ぎ落された親戚たちは、米と交換する材料が無くなって来たのである。それに、復員で若ものの帰って来た漁村の利枝(久左衛門の義姉)の家が、米不足を来している。彼女にとっては妹の、この久左衛門の米倉を見詰めない筈はない。おまけに、私もここの米倉には一方ならぬ魅力を感じているのだ。私の攻め道具は衣類だが、利枝の家は魚でだ。またこの村一番の大地主の弥兵衛の家が、金はいくらでも出すから米をくれ、と久左衛門に云って来ている。
「はははは、おれんちに、物があるのは、金が欲しゅうないからじゃ。」
 と、久左衛門は頭の良いことを云って私を笑わせた。頭の使い方を知っている老人だ。

 九月――日
 焼け出されて新潟の水原在の実家に疎開していた石塚友二君から葉書が来る。発信地は福島の郡山からだが、川端康成から鎌倉文庫へ入社の奨めをうけ、目前明らむ思いで今汽車に乗っているところとある。胸に灯火をかかげ、鎌倉へ向って進行していく夜汽車が眼に泛ぶ。だんだん灯の点いていく希望ほど美しいものはない。暗黒の運命の底にも駅駅があり、そこを通過して縫いすすむ夜汽車の窓よ。元気を失うことなかれ。

 どんなことが世の中に起ろうとも、例えば、現在のように世界がひっくり返ろうと、何の痛痒も感じない人物がいるものだ。農家の中には、ときどきそのようなものもある。まるで働く場所そのものの田畑以外は、世界は彼らにとって幽霊のようなものだ。いや、むしろ、日本が敗けたがために彼らは儲けているという苦しみと喜び。しかし、それとはまったく別に、敗戦を喜ぶ苦痛もあるにはある。そして、それらの心が喜びを抱いて現れて来つつあるということの苦しい裏には、人間よりも、人類を愛することだと思い得られる、ある不可思議な未来に対する論法をひっ下げていることだ。今のところ土産はまだ論法であって、人間ではない。世界をあげての人間性の復活に際して、人間性を消滅させたこの人類論法の袋の中から、まだ幾多の土産物が続続とくり拡げられてくることだろう。それが善いか悪しいかは、残念なことにまだ私には分らない。ただ私に分ることは、何となく残念なことだけだ。

 九月――日
 現在のわが国の文学者は、自分の心のどの部分で外界と繋がっているのであろうかということ。自分らは日本人なりという定義と、自分らは東洋人なりという定義と、自分らは世界人なりという定義と、自分らは敗戦国なりという定義と、これらの四種の定義が出されている。そして、その中の一つを選定してそれぞれ幾何学をしなければならぬという場合が起れば、文学者の心はどの定義を選ぶかという問題だ。

 勿論、文学は幾何学ではない。それなら、定義は無限に初めへ逆のぼって、文学とは定義そのものだと云わねばなるまい。「ポツダム宣言を承諾す。」という厳然明白な定義。この定義一つで日本全員の生命は救われたのだ。それぞれの幾何学は、ここから無数に展開して、われわれは民主主義国民なりという命題の証明にかからねばならぬとすれば、この際、証明するとは、その命題の意味する実行にかかることか、それとも、すでに国民の中に有るもの
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