一人あった。日華事変の戦争の最中に、そんな予言をして山中へ隠れてしまった人だ。私はいまその人のことをふと思い出した。人間の天才は二十五で、誰も天才としての生命力は消えてしまうものだといわれている。米にもこれに似た天才力はあるのかもしれない。曙色をしている米の天才は消え失せたかもしれないが、努力の天才ということもまだ残っている。天才とは何ものでもない、愚者を建造してその中に棲むだけだと云った人もある。米もどうやら愚者を建造して来たばかりに近い悲しみをひそめている。そういえば涙の形をしているのも、いまは皮肉なことではない実相のようだ。
「今年の新米は、おれには嬉しいのか悲しいのか分らないね。これ見なさい。」
 私は傍へ来た妻に云って掌の上の新米を出した。
「でも、美しいわ、きらきらしていること、ほら、こんなにきらきらと。」
「もうこれで、生命力はないというのだからね。日本の米は。」
「桜沢さんね、あの方、どうしてらっしやるかしら。あたしもう一度お会いしてみたいわ。」
 妻は桜沢如一氏の愛読者で、一度講演も聴きに行ったこともあって、日本の敗北を予言したその人の存在が、今ごろ興味を呼び起して来たらしい様子である。私のところへ来る青年の中にも二人ばかり、桜沢氏のもとへ出入りしていたものもあったが、ある日、太平洋戦争になったころその中の一人のA君が来て云うには、
「今度の戦争はどうしても敗ける、米に出ていると、桜沢氏がいうのですよ。大変だと思って、私はもう蒼くなってしまった。どうしたら良いでしょう。本当でしょうかね。」
 私は答えなかった。米から判断した思想というものは窺い知れざる奥ぶかく物凄いものがある。幾千年も食いつづけて来た物の中から、未来の姿の何らかを読みとどけることも出来ぬ眼力というのは、何かもう不足なもののあることぐらい気が附くべきときだ。と、私は自分のことを思って黙っていた。しかし、気がついたところで仕方がない。後の祭りだ。
「勝とうと思うな。負けないように気をつけよ。」と云ったのは兼好法師だが、これは五百年も前のことだ。それにしても、このAという青年は、それ以来住所不定となって全国をふらふらさ迷うようになり、ときどき意外なところがら風のような葉書をぽつりとくれるようになったりした。

 外国から帰って来たとき、下関から上陸して、ずっと本州を汽車で縦断し、東京から上越線で新潟県を通過して、山形県の庄内平野へ這入って来たが、初めて私は、ああここが一番日本らしい風景だと思ったことがある。見渡して一望、稲ばかり植ったところは、ここ以外にどこにもなかったからだった。その他の土地の田畑には、稲田は広くつづいても中に種種雑多なものが眼についたが、穂波を揃えた稲ばかりというところはここだけだった。この平野の、羽前水沢駅という札の立った最初の寒駅に汽車が停車したとき、私は涙が流れんばかりに稲の穂波の美しさに感激して深呼吸をしたのを覚えている。ところが、私は今そこにいるのだ。あのときは何の縁もないところのこととて、よもやここに自分が身を沈めようとは思わなかったのに、まったく十年の後に行くところのなくなった私は、偶然こんなところへ吹きよせられようとは、これが私にとっての戦争の結果だった。そして、私は初めてここで新米を手に受けてみて、米はどこに沢山あろうともこれに代るものは、世界広しといえどもどこにもないのだと思った。
「もう生命力がないのかね、これが。――そんな馬鹿な。」
 つい私もそう云わざるを得なくなって、何となく立ち外へ出た。外では稲刈のまっ最中だ。精米所の開け放された戸口からは粉が吹き散って白くあたりの樹の幹で廻っている。

 十月――日
 ここから三里ばかり離れた京田という村で、代用教員をしている私の長男は、正教員が復員で帰って来たので解雇された。生徒たちは別れに、
「先生、東京へ帰るのか。もうちっといてくれエ。ぼた餅やるよう。」と云ったという。
 十九で人生の悲しさを知った長男は、鼻緒を切らした足駄で、真暗な泥路を夜遅く帰って来てから、初めて月給を貰い、すぐ馘《くび》になった渋い辛さの表現の仕様がないらしい。
「悲しいかい。やっぱり。」と私は訊ねて笑った。
「そうだね、生徒と別れるのは、何んだか悲しいなア。教員室はいやだけど。」
「ちょっと、月給袋を見せた。」
 羞《はずか》しがって隠していた状袋を私は開くと、巻いた袋の重い底がずるずる下へ垂れてきて、中からしかつめらしい紙幣が出て来た。七十円ばかり入っている。
「沢山あるんだね。なかなか。」
「そう、宿直手当もあるんだよ。月給だけだと三十五円だけど。」
 私は自分がある大学の教師をしていたとき、月給四十二円を貰った最初の日の貴重な瞬間のことを思い出した。あのときは、月給というものは
前へ 次へ
全56ページ中23ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
横光 利一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング