には突き刺さっているものがある。
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愁ひつつ丘にのぼれば花茨(蕪村)
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 と誰も口誦むのは理由がある。この句は人と共に滅ぶものだ。耕し、愛し、眠り、食らうものらと共に滅んでゆくものでは、まだ美しさ以外のものではない。人の姿などかき消えた世界で、次ぎに来るものに異様な光りを放って謎を示す爪跡のような象徴を、がんと一つ残すもの。それはまだまだ日本には出ていない。人のいた限り、古代文字というものはどこかに少しはあったにちがいなかろうが。

 しかし、私は米のことを書こう。滅ぼうとしてもまだここに人人が喰い下ってやまぬ米のことを。どんなに人人が自身に嫌悪を感じようとも、まだ眼を放さず見詰めている米のことを。これは農村のことではない。谷から、川から、山襞《やまひだ》から、鬼気立ちのぼっている焔のことだ。私は地獄谷を書きたい。今ほどの地獄はまたとないときに、その焔の色も色別せず米を逐う人人の姿は、たしかに人が焔だからだ。自身の中から燃えるものの無くなるまで、火は火を映しあうだろう。

 九月――日
 雨だ。こんな日の雨天は、稲の花が結実しようとしている刻刻のころだから、朝夕が涼しく、日中がかッと暑くなくてはならぬものだ、と久左衛門が私にいう。もし今日のように雨天なら、実の粒が小さくて、一升五万粒を良とすべきところも、七万粒なくては一升にならぬ。これは不作だと。

 一粒の米を地に播くと三百粒の実をつける。一升五万粒を得るためには、百六十六粒の種子が必要となるわけだが、一反で二石の収穫を普通とするここでは、供出量を一反につき二石と命ぜられたとのことである。それなら来年度の種子米さえないわけだ。しかしながら、二石とり得られるのはすべての家からではない。一反につき一石七八斗の家が多い。良くて二石二三斗。それだと供出をするのに、どうしても無い家はある家から、不足の分二三斗を借りねばならず、そうして完納をすませた結果は、良くとれた家の米を無くしてしまい、現在のこの村の悲鳴となって来たのである。その上に約束の配給がないとすれば、日日自分の喰う米を借り歩くのも、どこから借りるかが問題だ。ところが、人手があって勉強をしたものの家は、二石五六斗も採れたのが中にはある。この家だけが供出もすませ、人にも貸し、なお二三斗を残して自分の生活を楽にしたのだが、今はこれをさえ人人は狙い始めた。この狙われているのが、別家の久左衛門だ。本家の参右衛門の方は借り歩き組の代表格で、貧農派はここの炉端を集会所にしている関係上、不平はいつもこの炉端の火の色を中心に起っている。
「もうじきに共産主義になるそうじや、そうなれば面白いぞ。」
 と、こういう声もときどき、誰か分らぬながら、この火の傍から聞えて来る。

 久左衛門の家へ集るものは、自作組で上流派だ。この家は酒の配給所をもかねているから、集る炉の中の火の色も、燃え方が参右衛門の家のとは違っている。ここは酒あり米ありの城砦だ。今は久左衛門の物小舎は、この上流組からも狙われているのである。酔い声が少しでもここから洩れて来ると、どこの炉端の鼻もすぐその方へひん曲る。
「ふん、どこへ匿してあるのかの。」
 と、参右衛門の方の集りは、いら立たしげだ。私はよく雨天のこんな所を目撃したが、そのときの男たちの眼の色は、米のときとは少し違って狂的だ。
「あの調子だと、朝から続けて飲んどるのう。」と一人がいう。黙り込んで聴き耳を立てていてから、また一人が、「ようあるこったのう。」とぶつりという。
 もううずうずしている別の一人が、自棄《やけ》に茶ばかり飲んでいる傍で、参右衛門は、煙管を炉縁へ叩きつけてばかりいる。酔い声が少し高まって聞えると、彼の顔は苦味走って青くなり、額の下で吊り上った眼尻にやにが溜る。不機嫌なときの参右衛門ほど露骨に不満を泛べる我ままな顔は少いであろう。しかし、これが一旦和らぐと、子供も匐いよりそうな温和な顔に変って来る。鬼瓦と仏顔が一つの相の中で揉みあっている彼の表情の底には、貞任や、山伏や、親王や、山賊やが雑然とあぐらをかいて鎮座した、西羽黒権現の何ものかを残している。ここは古戦場だが、彼の表情も、争われず霊魂入り交った古戦場だ。

 九月――日
 十米の眼前に雨が降りつつもこちらは照り輝いている空。山から幕のように張り辷って来る驟雨。稲の穂の波波うち伏した幾段階。――釣の一団が竿を揃え、山越えに行く足なみ。その尖がった竿の先がぶるぶる震えつつ日にあたっている。白く粉をふいた青竹の節節の間を、ゆれ過ぎてゆく釣竿の一団の中に、私の子供も一人混っている。この子はいま釣に夢中だが、ほとんど釣れたことがないに拘らず、餌の海老ばかり買っては盗られている。魚が盗るのか、人が盗るのか、答え
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