はいたって不明瞭なので、ある夜、私はこれを煮て食べてみると、これは磯の魚よりはるかに美味だった。以来ときどき盗人になるのはこの私だ。野菜が少なかろうと、海で山越しの魚がなかろうと、もう恐るるに足りない。実際、これさえあれば――私は全くこんなことに興奮するほど、日日の生活が不安だったのだろうか。しかし、たしかに、釣餌の小海老を発見してからは私は勇気が出て来た。手で受ける半透明の海老一寸のこの長さは、焔を鎮める小仏に似て見える。何と私はこのごろ汎神論的に物が仏と映るのだろう。日本の思想はいつもここで停止して来たようだ。
今、この村にとってもっとも必要なものはだい一に米、以外には塩と布切れだ。清江が今朝早くから家を出たまま、一度も姿を見せぬのは、隣村の早米の田を持つある家へ、稲刈に行っているからだと、妻は云った。
「もう稲刈か。」と私はおどろいて訊ねた。
参右衛門たちには食べる米がないので、自分の家の収穫時まで喰いつなぐ米を、早米の田を持つ家の稲を刈り、そしてそこから借りるのだとの事である。なるほど、そういう自由な借米法があれば、周章《あわ》てずともすむわけだと思った。無理な供出の不足を補うために、こうして他人の田の厄介になりつつある農家は非常に多いそうだが、それはとにかく、今年の米は早くも田から出て来たのだ。敗戦の底から地のいのちの早や噴き湧いて来ている目前の田畑が、無言のどよめきを揚げ、互いに呼びあうように見える。まだ去年までなかったものが生れているのだ。のっそりと※[#「口+愛」、第3水準1−15−23]《おくび》をしたり、眼をぱちくりさせたり、鬣《たてがみ》を振ってみたり、――それにもう刈りとられて仕舞うその早さ。あくなき人の残酷さ。
参右衛門は脚に瘍が出来て一晩眠れずに苦しみ通し、今日は遠方まで医者通いだ。久左衛門は、茄子畑へ明礬《みょうばん》を撒けば来年も連作が出来るので、茄子にしようか、馬鈴薯にしようかと朝から迷っている風だ。
この夜、砂糖二十匁ずつ配給。夕方の六時から十一時まで、皆を並ばせた前で、計ってみたり減らしてみたり、最後に五百匁が足りなくなると、また皆のを取り上げ、計り換えて減らしたり。村へ甘さ一滴落ちて来るとこんなものだ。
九月――日
馬の足跡にしみ込んだ雨水に浮雲の映っている泥路、この泥路を一里、大豆の配給を受けに妻と私と二人で行く。配給所へ着いてもまだ肝心の豆が着いていない。群衆は居眠りして待っている。すると、そのとき野末の遠い泥濘の真ん中で、大豆を積んで来た牛車が立往生して動かないのが見えた。「あれだあれだ。」という声声にみな眼を醒して望む。しかし牛は突いても打っても動く様子がない。しびれを切らした群衆は、牛が動いては停るたびに、いら立ち騒ぎ、手んでに牛をぶっ叩く真似をする。牛車はちょっと動いたかと思うと、またすぐ停る。「えーい、もう、腹が立つう。」と叫ぶ農婦があった。「歯がいいッ。」と、足をばたばたさせるもんぺがある。自転車で飛び出すもの。空腹で帰って行くもの。皆ぷんぷん膨れ返って待っている中を、牛はのたりのたりと、至極ゆっくり動いてくる。前後待つこと三時間、ようやく私と妻は五升の豆を袋に入れ、また一里の泥路を帰って来た。この路は眼を遮ぎるもののない真直ぐな路のため、歩けど歩けど縮らぬ。十時に家を出て帰り着いたのが三時半だ。昨日夕食を摂ってからまだ私は何も食べていない空腹に、ひどく砂の混った屑豆は怨めしい。それに、もう虫の奴がさきに半分も喰ってしまっている。
久左衛門の長男の嫁は無口でよく働く。昨旦二里ほどある実家の秋祭に帰ったが、一晩宿りで百合根、もち米、あずき、あられ、とち餅、白餅などを背負いこんで戻って来ると、こっそり裏口から持って来てくれた。妻はほくほくして礼を云うついでに、紙包を渡そうとしたが、どうしても受けとらない。黙って跣足で来て、どさりと縁側へ転がして、また黙ってすたすた帰っていった。いつも頬がぼっと赭く、円顔で、吉祥天のような胸のふくらみ、瑞瑞しい新鮮な足首だ。
参右衛門の家の長男の嫁は、良人が出征のため夜だけは寝に来るが、昼間は朝から実家へ帰りきりである。清江が嫁の実家へ行ってみると、誰もいない家の中で、嫁ひとり腹痛で七転八倒している最中だとの事である。嫁競争、息子競争の本家、別家を通じて、今のところ第一等を占めつづけているのは白痴の天作であろう。
九月――日
青柿いよいよ膨れてくる。雨滴に打たれて絶えず葉を震わせている羊歯《しだ》。水かさを増した川で鮒釣りする蓑姿。山鳩のホーホーと鳴く声。板の間に転っている茄子に映った昼間の電灯。森の中から荷馬車で帰ってゆく疎開者の荷が見える。雨の庭石の上を飛ぶ蛙。鯉が背を半ばもっこり水面から擡《もた》げたまま、
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