がら一家四人が野菜を喰べていられるというのは、不意に近所から貰ったり、清江が知っていて、そっと私たちにくれるからである。妻は毎日あちらに礼をいい、こちらに礼をのべ、ひそかに私が聞いていると、一日中礼ばかり云っている。あんなに礼ばかり云っていては、心の在りかが無くなって、却って自分を苦しめることになるだろう。実際、物乞いのようにただ乞わないだけのことで、事実は貰った物で食っている生活である。人の親切は有難いが、これが続けばそれを予想し、心は腐ってくるものだ。
「ほんとにお金で買えれば、どんなに良いかしら。あたし、お礼をいうのにもう疲れたわ。」と、ある日も妻は私に歎息した。
 物をくれるのに別に人情を押しつけて来るのではない。ただ自然な美しさでくれるのだが、それなればこそ一層私たちは困るのだ。一度頭を昂然とあげて歩きたい。
「困るようなことはさせんでのう。」
 と、このように呟いた久左衛門の言は、今やまったく反対の意味で嘘になって来たわけだ。思いが現実から放れる喜びというものは、たしかに人にはあるものだ。恩を忘れる喜びを人に与えたものこそ、真に恩を与えたものの美しさだろう。間もなく私は東京へ戻り、忘恩の徒となり、そしてますます彼らに感謝することだろう。

 農家のものの働きを知るためには、ある特定の人物を定め、これにもっぱら視線を集中して見る方が良いように思う。私は清江の行動に気をつけているのだが、この婦人は一日中、休む暇もなく動いている。今は収穫前の農閑期だのに、清江はもう冬の準備の漬物に手をかけたり、醤油を作る用意の大豆を大鍋で煎《い》ったり、そうかと思うと草刈り、畠に肥料をやり、広い家中の拭き掃除をし、食事の用意、一家のものの溜った洗濯物、それに夜は遅くまで修繕物だ。自分の髪を梳《す》くのは夜中の三時半ごろで、それを終ると、竈《かまど》に焚きつけ、朝食の仕度、見ていると眠る暇は三時間か多くて四時間である。驚くべき労働だ。
「少し遊びなさいよ。」
 と私は冗談を云って茶を出すことがあるが、茶は嫌いだと清江はいう。農家のものの働きに今さら感心することが、おかしいことだと人はいう。定ったことだからだ。しかし、定ったことに感心し直さないようなら定ったことは腐る。よく働くことを当然だと思う心が非常な残酷心だと思い直さねば、生というものは感じることは出来ない。都会が農村から復讐を受けているといわれる現在、善いことは復讐を感じたその心の動揺であろう。不安、動揺、混乱は、まだ失われぬ都会人の初初しい徳義心の顕れだ。それにしても、私は眠い。蚤のために私は一日三時間より眠っていない。

 私たちペンを持つものの労働は遊ぶ形の労働だが、人はいまだにこれを労働と思わない。まことに遊ぶ形の労働なくして抽象はどこから起り得られるだろう。また、その抽象なくして、どこに近代の自由は育つ技術を得ることが出来るだろうか。私は感歎すべき農家の労働にときどき自分の労働を対立させて考えてみることがあるが、いや、自分の労働は彼らに負けてはいないと思うこともたまにはある。

 朝鮮のある作家に、ある日、文学の極北の観念として、私はマラルメの詩論の感想を洩したことがある。独立問題の喧しくなって来ていた折のことだ。
「マラルメは、たとえ全人類が滅んでもこの詩ただ一行残れば、人類は生きた甲斐がある、とそうひそかに思っていたそうですよ。それが象徴主義の立ち姿なんですからね、もし芸術を人間のそんな象徴と解したときに、君にとって独立ということは、あれははっきり政治ということになるでしょう。」
 朝鮮の作家は眼を耀かせて黙っていた。しかし、この作家はもう朝鮮へ去っている。

 日本の全部をあげて汗水たらして働いているのも、いつの日か、誰か一人の詩人に、ほんの一行の生きたしるしを書かしめるためかもしれない、と思うことは誤りだろうか。
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淡海のみゆふなみちどりながなけば心もしぬにいにしへ思ほゆ(人麿)
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 何と美しい一行の詩だろう。これを越した詩はかつて一行でもあっただろうか。たとえこのまま国が滅ぼうとも、これで生きた証拠になったと思われるものは、この他に何があるだろう。これに並ぶものに、
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荒海や佐渡によこたふ天の川(芭蕉)
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 今やこの詩は実にさみしく美しい。去年までとはこれ程も美しく違うものかと私は思う。

 こういうときふと自分のことを思うと、他人を見てどんなに感動しているときであろうとも、直ちに私は悲しみに襲われる。文士に憑きもののこの悲しさは、どんな山中にいようとも、どれほど人から物を貰おうとも、慰められることはさらにない。さみしさ、まさり来るばかりでただ日を送っているのみだ。何だか私
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