良な人物だと信用する気になった。
 貨車賃を等分にし、駅までの運搬その他、必要事項を定めるときにも、
「貨車賃は要りませんよ。どうせ、わたしの方は送るついでですから。」とそう男がいう。
 炉の中で枯松葉が良い匂いを立てている。その匂いがまた善かった。私は帰ろうとして立ちかけると、
「米は?」と男は訊ねた。
「米は入れてないですよ。」
「どうして?」いぶかしそうにまた訊ねる。
「買う暇もなし、何とかなるでしょう。」
 男は前にいる宿の主人と顔を見合せて黙っていた。貨車に荷を積み込むときや、着いてからまた荷別けのとき、その他私らの立会いでするべきことも、皆私はしないつもりであるから、荷の目標《めじる》しをしておかなければならぬ。
「荷の着くころ私は東京へ行ってるつもりですが、ひと先ずあなたのお宅へ私のも預けてもらえませんか。それでないと、東京の方の運搬事情は、終戦後どうなっているか、さっぱり僕には分りませんからね。」
「そうしときましょう。」
 これも不安なほど簡単だ。とにかく向うにとってはどうでも良いことばかりだが、私にとっては運命のある部分を賭けたようなものである。乗ったが最後ひき摺られ通しは私の方だ。しかし、人の人相は戦争でみな悪くなっているので私は字の方を信用する。これなら私はあまり今まで間違ったことはない。

 薄雪が沼の上に降ってくる。私は自分の荷物を失うまいとして、人を仏と見ようとしている自分の利己心について、沼の傍の路上を歩きながら、ときには利己心も良いものだと思った。もし私にこんな利己心がなかったら、一生、人をただの人間とばかり思いつづけたかもしれない。それにしても、人間を人間と思うことは誰に教わったことだろう。そして、これがそもそも一番の幻影ではないのか。自分というものが幻影で満ちているときに。まことに、我あるに非らざれど、という馬祖はもうこれから脱け出ている。しかし、私はこの幻影を信じる。二者選一の場合に於ても、つねに私は自分の排する方に心をひかれる小説家だった。たしかに私は賢者ではない。万法明らかに私の中にも棲みたまう筈だのに、私は愚者にちかい。
 断《き》り通しの赭土の傍に立って私は火燧崎の方を振り返ってみた。僧兵の殺戮し合った場所は、あのあたりから、このあたりにかけてであろうが、念念刻刻死に迫る泥中の思いにも薄雪はこうして降っていたことだろう――

 十一月――日
 荷は十一包みも出来あがった。参右衛門が縛りあげてくれたものだが、日ごろの習練が効きすぎどれも米俵のようになる。
「じゃ、あたしたちも、いよいよ帰るのね。」
 妻は荷を見ながら名残り惜しげだ。喜んでいるのは子供らだけである。私もさみしい気持ちでがらんと空いて来た部屋の中を見廻した。鯉もふかく水中に沈んでいる。
「毎年いくら飼っても盗まれるんだが、今年はお前さんたちがここにいるので、鯉も盗まれずにすんだのう。」
 と参右衛門は云って喜んだ。彼は私の注文した薪を取りに山へ清江と二人で出かけて行く。東京の留守宅から手紙が来た。食い物の入手の困難なこと、強盗がさかんに出るので帰ることを見合すようにと書いてある。もう遅い。しかし、妻はその手紙を見て急に恐怖を覚えて来たらしい。
「いやね。東京強盗ばかりですって。」
「しかし、もう駄目だ。」
「火燧崎の人、どんな人でしたの。大丈夫かしら。」
 東京から来ているということで、火燧崎まで強盗に見え出して来るのも、今は輸送の安全率が皆目私らには見当がつかぬからだ。現に預金帳の握り潰しで半年以上も苦しめられた直後である。その無政府状態の真っただ中へ、見も知らぬ人の荷物として投げ出すこれら私の荷の行衛については、考え出せばきりなく不安だ。一点たりとも安心出来る部分はどこにもない。しかし、疑心群れ襲って来る怪雲のごとき底から、じっと澄み冴えて来るのは正しい彼の書体であった。それだけは、打ち消しがたくしっかと何かを支えている。篆刻のごとき美しさだ。あれが生の象徴だ。私は東洋を信じる。日本を信じる。人みな美し、とそう思った。
「大丈夫だよ。この荷物は無事に着く。」と私は云った。
「そうかしら、でも、一つ無くしてももう買えないものばかしですのよ。」
「いや、大丈夫だ。」

 久左衛門が来た。そして妻にこう云う。
「せつの結婚式が明日なもので、急がしゅうて来れなんだが、何んでも、お前さんたち知らぬものに荷物を頼んだいうことだでのう。心配で見に来た。そんなことはせん方がええぞ。せっかく今までおれはお世話して来て無事だったのに、今になって危いことがあっては、おれも困るでのう。」
 とにかく、急なことで一言の相談もせず荷を造ったことは、重重失礼したと妻は詫びを云った。私はまた彼にそんなことを云い出せば、せっかくの参右衛門の好意をも
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