、人よりもその機縁の方を信じる癖で、私はもう客の人相よりそれ以前の事の起りの方に重きを置いて考えている。これは、ひょっとすると荷を動かしてしまいそうだという気がする。何ものにも捉われぬ判断力というものは有り得るものかどうか。私は自分の癖に捉われている。これは生理作用だ。
「その薪買いの客という男を、お前は見たのか。」と私は妻に訊ねた。
「一寸見ましたわ。」
「信用は出来そうか。」
「そうね。悪い人ではなさそうでしたね。でも、何んだか、そわそわばかりしていて、ちっとも落ちつきがないんですのよ。何んだってあんなに、そわそわばかりしてるんでしょうかしら。それが分らないんですの。」
「じゃ、人は善さそうなんだね。」
「ええ。そんな変なことしそうな人じゃありませんでしたわ。」
よし、会おう。明日もう一度来るという。そろそろ荷物の整理をし始めるよう私は妻に頼んだ。このような渡りに船のことを、むかしは仏が来たと人人は思ったものだが、そう思えば、明日この人に会うのが私には楽しみだ。私もこの地のようにだんだん鎌倉時代に戻っているのであろう。
十一月――日
十時に例の客が蓑を着て来た。私のこの仏は、三十過ぎのビリケン頭をした、眼の細く吊り上っている、気の弱そうな正直くさい童顔の男であった。大きな軍靴を穿いているところを見ると復員らしい。円顔で、おとなしい口もとが少し出ていて、疑いを抱かぬまめまめしい身動きは、なるほど、こんな仏像は奈良や京都の寺でよく私は見たことがある。炉に対いあっている間も、私に見詰められるのが辛そうな様子で、絶えず横を向いて話している。
「これから東京への土産に荷車を買いに行くんですよ。それから羽黒へ行って、帰ってから大山へ廻って――何が何んだかもう分らない、急がしくって――」
こういうことを云うときも、そわそわし、ひょこひょこしつづけている。客の今日一日に歩き廻る円囲を頭に泛べてみても十五里ほどの円だ。私はこの人を仏だと思ってみていることが、何んだか非常に面白くなって来たようだ。
「一日で出来るのですか、そんなこと。」と私は訊ねた。
「この間まで兵隊へ行ってたものだから、まア、こんなことはね。東京へ帰って百姓をしなくちゃならんものだから、農具を買い集めているんですよ。なかなか無くってね、それに有っても高いことをいう。」
とにかく、生れはこの近村で自分は養子であること、養父が火燧崎に来ているから、一度荷物の相談をその人としてくれと客は私にいう。菅井和尚から貰った小豆餅《あずきもち》を出すと、喜んですぐ食べた。積みこむ荷の整理から買い集めまで一切この人一人でやるらしく、瞬時の暇もないらしい多忙さは気の毒なほどである。
「私は荷と一緒に東京へ帰りますが、またすぐ、もう一ぺん引き返して来るんですよ。」と客はいう。
この混雑の列車の中を、帰るだけが私にやっとだが、この人は、私のやろうとすることの十数倍のことをやろうとしている。帰って行くときのこの客の後姿を見ていると、横っちょに引っかけた蓑が飛ぶような迅さだ。あれなら十五里は今日中にやれそうだと思った。
私は小一里もある野路を火燧崎まで出かけた。山裾の入り組みが田の中へ複雑な線で入り浸っている。行く路はそれに随い海岸のように曲りうねっていて、霙《みぞれ》の降っているその突端の岬に見える所が火燧崎だ。このあたりは古戦場だから多分ここから火を打ちかけたものだろう。家の一軒もない泥田の中に、ぼつりと一つ農家があり、それが温泉宿で、一ヵ月も水を変えない沸し湯のどろどろした汚れ湯が神経痛によいという。泥のような中から裸体の農婦の背中や腰が白い肌を見せている。そこの勝手元に私の訪ねる人は、どてらを着て炉の前に坐った六十過ぎの男であった。眼のぎろりと大きい、養子とは反対の太っ腹なむっつりした男で、垢と泥とでどす黒く見える懐の中から、すっきりとした外国製の煙草を一本抜き出した。悪く見ると山賊の親分で、善く見ると大道具の親方という風貌だが、向うも相手を誤ったと思ったらしく、不機嫌な様子で押し黙っている。背景の宿が宿で、私はまだこんな温泉宿というものを見たことがない。泥宿めいた混雑の中にこうしている男が、私の荷主になるのかと思うと、少し私も躊躇した。誤れば私の財産の半分はこれで失うのだ。
「荷物が東京へ着いてから、私の家まで運送するのが面倒で、それに困っているのですがね、運送屋をお世話願えませんか。」と私は云ってみた。
「ええ、しましょう。」と、一言ぼつりという。
それだけだ。一つ東京の住所をここへ書いて貰いたいと私は云って手帖を出した。男は鉛筆を受けとりすらすらと名と住所とを書きつけた。意外に良い字だ。悪い男はこのような字を書けるものではない。私は多少それで、この男は見かけによらぬ善
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