み消しそうで、この二人の間に挟まれての行動は、目立たぬところでうるさいことの多かったのも、今までから度度感じていた。
「うまくいけば良いがのう。おれも知らん人間だぜ。大切な品物は出さん方がええ。参右衛門も知らん男だというから、どうしたことでそんなことするものかと思うて、それが心配での――」
 たしかに久左衛門のいうことは道理である。このこととは限らず、私たちを彼はひどく愛してくれており、特に私に示してくれた彼の愛情にはなみならぬものがある。

 人を見ると、直ちに自分の利益になる人間かどうかを直覚して、それから人を世話するのが久左衛門の悪癖だと、隣人からそんな批評を浴びせられているのも私は知らぬこともない。参右衛門が私たちに冷淡な様子を示すのも、久左衛門への礼儀もあるであろうが、反感もこれでないとは限らない。しかし、人を見て、打算に終る人物としてみても、久左衛門は少し私は違っていると思っている。彼の打算は彼自身の生活の律法で、その神聖さを彼とて容易に犯すことは出来ぬ。しかし、久左衛門にとっては愛情はまた律法とは自ら別物に感じているところがある。用談の際の駈け引き、応対の寛容、瞬時に損得を見極めたリズムある美しい要点の受け応え、不鮮明な認識の流れはそのまま横に流して朦朧たらしめる訥弁《とつべん》で、適度の要領ある次ぎの展開の緒を掴む鋭敏な探索力など、彼の政治力は数字と離れて成り立たないものだ。それも緩急自在な芸術性さえ備えている。その稀な計算力の才腕には、たしかに天才的なところがあって、周囲のものにはただ打算に見えるだけの抜きん出た悲劇性さえ持っている。
「おれの悪口をみなは云うが、おれが死ねば何もかも分る。」
 こう久左衛門が云うところを見ても、彼なら、分るようにしてあるにちがいあるまい。彼は、この村で農業というものにうち勝った唯一の人物だ。その上、私に神のことさえ口走ったのは打算でいう必要などどこにもない。まさか神まで私に売ろうとは彼とて思ってはいなかろう。
「神は気持ちじゃ、人の気持ちというものじゃ。」
 六十八年伝統との苦闘の後、ついに掴んだ久左衛門の本当の財宝はそういうものであったのだ。後はただ死ねばもう彼は良いのだ。

 十一月――日
 雪が舞っている。私の荷の出る時間が迫って来た。結婚式のある久左衛門の裏口から出て来た参右衛門は、袴をつけたまま、荷物を荷馬車の上に舁《かつ》ぎこんだ。馬子が手綱で一つひっ叩くと、鬣《たてがみ》を振り上げた馬は躍り上り、車が動いていった。私の荷は薄雪の中に見えなくなった。人より荷の方がつよく生きぬいて来たように見えるのは、どうしたことだろう。私は雪の中に立って轍の音の遠ざかるのを淋しく聞きながら、家の中へ這入った。

 せつの式は新庄の婿の家で挙げられている。久左衛門の宅では留守式で、清江や私の妻は手伝いに行ききりだったが、夜になって、祝いが崩れ、乱酔した参右衛門の声が炉端から聞えて来た。妻や子供たちは恐れをなして早くから寝た。酒乱癖の彼の酔った夜は、清江はあたりの物をすべて取り片附けて傍へは近よらない。鉄瓶《てつびん》、薬鑵《やかん》、どんぶり鉢、何んでも手あたり次第に清江に投げつけ、「出て行け、帰れ。」といいつづける参右衛門の口癖も、今夜は結婚式で上機嫌に歌を謡っている。袴をつけた大きな顔をにこにこさせ、暫く皆を笑わせてはいるが、後はどうなるものか分らない。
「参右衛門が酔ったら、そっと座を脱して下されや。恐ろしい力持ちじゃ。おれはあれから殴られた殴られた。」
 と、こう私に注意した久左衛門のこともある。子供たちが参右衛門の下手な歌を面白がってときどき蒲団から頭を上げるが、
「そうら、来るわ。」と妻に云われると、ぺたりとまたすっ込む。
 しかし、隣家が結婚式だと思うと、誰でも自分らのそのときの事を思い出す。おそらく参右衛門の酔いにも、清江の幻影が泛んだり消えたりしていることだろう。二人は同級生で、卒業式の写真の中に一緒に二人の写っていたのを私も見た。
「これ、こ奴がおれの女房になろうとは、思わんだのう。それに、こ奴が――」
 そう云っては幾度も突ッついた跡が、写真の清江の顔にぶつぶつとついている。家を飲み潰し、妻子を残して樺太へ出稼ぎに十年、浮き上ろうにもすでに遅い、五十に手の届いた私と同年の参右衛門の幻影は、節の脱れた鴨緑江節に変っている
「朝鮮とオ、支那とさかいの、あの、鴨緑江オ――おい、おいお前もやれよ。やれってば――」
 足をばたつかせて清江にいう参右衛門も、ここの炉端で一人児として生れ、旅をして、またもとの生れた炉端で前後不覚に謡っている。暴れようと投げようと、人の知ったことではない。どう藻掻こうと鍋炭のかなしさは取れぬのだ。外では雪が降っている。
 深夜になってから参右
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