ったそれだけだそうだが、他人目から見ればつまらなそうな遊びながらも、本人にしてみればおそらくこれほど愉快な娯楽はあるまい。厳しい老人たちの眼から離れ、ぺちゃくちゃ喋る話の中には、この村一の美人といわれるせつの新婿の職業は、異様な花を咲かせてさざめき返っていることだろう。

 菅井和尚が見えた。この釈迦堂の和尚が見えると、いつも参右衛門は家の中から姿を消す。おかしいほど彼には和尚が苦手らしく、小学校の生徒が先生の姿を見て逃げ出す足と同様にすごく迅い。私はこの和尚から机を貸してもらい、おはぎを貰い、柿を貰い、馬鈴薯《ばれいしょ》を貰った。僧侶くさみの少しもない闊達な老人で、ここから十里あまりへだてた温海という温泉場では、この和尚のことを、ああ、あの名僧かと人はいう。ところが、私の今いるここの村では、僧侶臭のないところが有難味がないと見えて、悪くは云わぬが、にやにやと笑うだけだ。従僕に英雄なしというゲーテの言葉ならずとも、傍にいるものには、いかなる傑物も凡人に見える作用をここでもしている。一里ごとに変っている和尚の自由な行動に対する世間の批評は、円周の外波の響ほど真実であるか。人は死ねば、その彼の伝うる響は、距離とは違い、時とともにまた異なるだろうが、結局、人の存在価値は、傍にいても分らなければ、外にいても分らない。時たってもまた同様だ。小空、中空、大空、空空、無空、というような言葉は、徹底するとついに天上天下唯我独存、(尊ではない)存すというところに落ちつくのも、菅井和尚の釈迦堂の釈尊の首一個の存在がよく語っているようだ。そういえば、釈迦が天上天下唯我独尊と唇から発した日は、十二月八日だった。太平洋戦争も同一の日だが、まもなくその日はやって来る。

 十一月――日
 預金帳が無事に着いた。四月から半年以上も行衛不明で、東京の銀行の方を調べて貰うと、銀行の女事務員が今まで握り潰していたということが判明した。何事にも腹を立てないということは、要するに堕落しているのだ。しかし、どこへも私は怒りようがない。せめて家族の者を温泉へでもつれて行ってやりたくなって、急にこの日の土曜を利用し温海へ行くことにした。次男の方がまだ学校から戻らず、やむなく三時まで待ったがそれでも来ない。長男に、それでは明日後から次男をつれて来るように※[#「口+云」、第3水準1−14−87]咐《いいつ》け、私は妻と二人で先きに立つことにした。
「何んだか、子供から逃げて行くようですわね。」
 と妻はしょんぼりしていう。
「たまにはいいだろう。温泉行きも十年ぶりだからね。しかし、宿屋はやっているかどうだか分らないから、それが少少心配だ。」
 駅まで泥路を跳び跳び行くのにも二人は何となく気も軽くなったが、降ったりやんだりしている雨の中で、開業不明の行く先きの宿を思うと少し無謀だったかと思う。それでも子供たちから逃げて行く感情は、妙に捨てがたい新鮮なものがある。
「今日は悪る親だねどっちも。」
「そうね。何だか、おかしいわ。」
 金錆汁の流れ出た駅までの泥路も、二人で逃げるのだと思うとそんなに遠くはないものだ。醤油と味噌と米とを下げているのに、それもそんなに重くはない。
「残った二人は、鬼のいない間の洗濯で、今夜はさぞ凱歌をあげることだろうな。」
「そうよ、嬉しくってたまらないでしょうきっと。」
 上り汽車はすぐ来たが非常な混雑だった。そこへ無理に捻じこむように妻を乗せ、遅れて私が乗ろうとすると、中から私の脇腹を擦りぬけて一人跳び出て来た小僧がいる。見ると次男だった。背後から肩をぴしゃりと一つ打って、
「おいおい。」
 跳び降りた次男は振り向いたが、そのときもう発車し始めた。
「おい。明日来るんだよ。」と私は云った。
 温海行をまだ知らぬ次男は何のことか分らぬらしくプラットに突き立ったままこちらを見ている。混雑と汽車の音で聞えぬらしい。顔が蒼くなっている。
「来るんだよ明日。」
 またそう云っても一層子供には聞えぬ風で、汽車は離れていった。

 温海へ着いたのは五時すぎだった。バスはどれも満員でやっと来たのは故障だ。雨の中をまた二人で歩いて滝の屋まで行った。もう真暗だった。この宿屋は戦前私たちは毎夏来たのだがそれから十年もたっている。私はこの温泉が好きで何度も書いたことがあるのに一度も名を入れたことがない。戦争で定めし荒れたことだろうと思っていたが、今さきまで海軍の傷病兵の宿舎にあてられて満員だったのが、今朝から開放されて空だということであった。部屋も川添いの良い部屋があてられた。
「あなたさん方が初めてのお客さんですよ。運の良いお方です。」
 と、主婦は云う。この主婦とも十年も見ないが一向に年とった模様はない。ともかく良かった。疲労でぐったりした上に空腹で動けない。薬品の
前へ 次へ
全56ページ中44ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
横光 利一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング