匂いがぷんとするのでよく見ると看護婦部屋だったらしい。婦人の好きそうな覚悟を定めた和歌二三首が短冊で壁に貼ってある。妻がすぐ湯舟へ降りて行った間、服を脱ぐのも面倒でひとり火鉢に手を焙《あぶ》っていると、そこへもう電話があった。座談会をこれからすぐやるので是非出てくれとの文化部からの交渉である。宿へ坐ってからまだ十分もたっていないのに忽ちこれだ。佐々木邦氏が見えているので是非とのことだが、この今の場合のおつき合いは苦しく、夫婦揃って初めての夕食さえ出来ない歎息が出る。そこへ文化部の人が直接来てまた督促が始まった。「鶏を潰したのですよ。それを御馳走しますから――もう間もなく煮えるころでしょう。ひとつ今夜は、思うこと云いたいこと、何んだって云える時代になりましたから、云いたい会というのですよ。」
「云いたいことが、あんまり云えて、何も云えないでしょう。」
 と私は苦笑した。結局、この人にその場から引き立てられ連行された。湯から上って来た妻はぼんやりと見ているだけだ。今日の昼間、子供がプラットで私を見てぼんやり立っていたのと同じ表情だ。

 この座談会ほど馬鹿げた座談会に会ったのは初めてだが、それが一種の面白さだったというべきものも、またあった。
「今夜は鴨が来ましてね、急に夕暮から一羽の鴨がやって来て――」
 文化部の人の紹介の後、私は広間の寒い一隅に坐らせられ、この町のある医者の科学談を聴衆と一緒に聴かされつづけただけである。
「先日も岩波茂雄君が東京から私のところへ来ましたが、君のその話は面白いから、是非書けとすすめてくれました。」と医者は名調子で聴衆に対い、自分の原稿を立って読み上げる。およそ一時間、でっぷり太った栄養の良い赭顔で、朗朗たる弁舌の科学談だ。酔っている。とにかく人は今は酔いたいらしい。酔えるものなら何んであろうと介意《かま》ってはいられぬときかもしれない。
「浜の真砂は尽きるとも、真理の真砂は尽きぬであろうと云ったニュートンの偉大さ。あのニュートンは――」
 百人ばかりの聴衆は私と佐々木氏とに気の毒そうに黙り、しょぼしょぼ俯向いているだけだ。私はいつかこの医者が、盲腸患者の腹を切開したとき、鋏を腹の中へ置き忘れたまま縫い上げて、また周章てて腹を破ったが死んだという話を思い出した。これはこの地方で有名な逸話である。浜の真砂とひとしい多くの追憶の中に一粒の毒石があるなら、真砂の浜は血で染っている筈だろうが、科学上の磊落《らいらく》な過失というものは、東洋人、殊に日本人は滑稽な偶然事として赦す寛大さを持って生れているのかもしれない。この医者は流行している。
 会が終ってから、私を連行して来た人は私にこう云った。
「東北人というものは、どうしてこう馬鹿なんだろうか思いますよ。だって、東条、米内、小磯と三代も、一番馬鹿な、誰もひき受け手のないときに担がれて、まんまとその手に乗せられて総理大臣になる阿呆さ加減というものは、あったもんじゃありませんよ。みなあれは東北人だ。」
 私はまたそれとは別のことを考えていた。誰も逃げ廻るところを引き受けた誠実さを認めずに、他のどこをあの人人から認めようとするのかと。しかし、これは今後の問題でむずかしくなることの一つである。誰からも一大危機と分っているとき、逃げ廻る狡猾さと坐り込む諦念と。危機でなくともこれは毎日人には来ていることだ。今夜も私は襲われて鴨にされ、こうして十年目に巡って来た一刻の夫婦の夕さえ失った。宿へ帰ったときは妻はもう寝ていたが起きて来た。
「どうでした。今夜のここのお料理は、それはおいしかったですよ。」
「僕の方は、あの有名な医者が出てひとり演説だ。おれはあの人の科学談を拝聴しに行っただけだよ。」
 あの医者といえばもう分る。
「ああ、あの人ね、あの人ならそうでしょう。鶴岡にむかしいた人ですの。ほら、お腹の中へ、鋏を置き忘れたという人。」
 妻もすぐ思い出したと見え、そう云ってくつくつ笑った。妙な人気である。しかし、宿へ帰ってこうして落ちついてみると、不思議な面白さが湧いて来るのを覚え、後が愉快だった。実に田舎らしい頓間な空気の中に溶けこんだ、あの医者の粗忽な逸話の醸す酔いのためかもしれない。

 十一月――日
 子供たちは正午ごろどやどやと部屋へ這入って来た。すると、もう服を脱ぎにかかって湯へ飛び込む。先ず一ぷく、などということのないのが、ぴちぴち跳ねる鱗の周囲にいるように感じて、私の一ぷくが一層休息らしく思われて来る。久左衛門の妻女が持たせてくれたという食用の黄菊の花を沢山袋につめて来たので、温泉の湯口の熱湯で茄でて食べる。妻は番頭が持って来た新九谷の茶器の湯呑が気に入ったといっては、それを眺めてばかりいる。
「あたし、このお茶碗を見にだけでも、もう一度ここへ来たい
前へ 次へ
全56ページ中45ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
横光 利一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング