少し鍋が煮えて来ると、蓋を取ってみて、汁を一寸指につけては、
「ほう、甘い甘い。今にのう、ぼた餅につけて、うんと美味いの食べさせてやるぞ。」
 と、私の子供らにいう。子供らは面白がって庖丁ですぽりすぽりと糖黍を切り落していく。参右衛門は杓子《しゃくし》で攪《か》き廻しているうち、鍋の汁は次第にとろりとした飴色の粘液に変って来る。
「ほう、これは美味い。砂糖だ。」
 相好を崩してそういう参右衛門の髭面へ、鍋炭が二本灼痕のように長くついていて、味噌や醤油を作る夜とはだいぶ様子が違っている。大人に見えるのは清江一人だ。

 十一月――日
 路の両側から露れて来た茨の実。回復して来た空に高く耀く柿の実。紅葉の中から飛び立つ雉子の空谷にひびき透る羽音。農家はこうしてまた急がしくなって来たようだ。朝霧の中で揺れている馬の鬣《たてがみ》。霜の降り始めた路の上で鳴りきしむ轍《わだち》の音――

 一俵千五百円で二十五俵を都合をつけてくれという闇師が、先日からこの村へ潜入して来ている。東京までトラックで運ぶということ、そんなことは出来るものではないという結論で、これは纏《まとま》らなかった様子だが、そのときから米の値は一躍騰った 一升が四十円ほどになって来たのだ。東京からの通信では六十円から七十円になっている。一升五円以上の値で売るものなどこの村にはないのうと、そう久左衛門の云っていたのは夏のことだ。それが二十円になったときには村のものらは眼を見張ったものだが、今は誰もが、暴れ放された駻馬《かんば》を見るように田の面を見ているばかりである。
「これじゃ、この冬は餓え死するものは多いのう。」
 と、久左衛門は気の毒そうにいう。
「もうこんなになっちゃ、東京へ帰って隣組の人達と一緒に、餓え死する方がよござんすわ。帰りましょうよ。」
 と、妻は私にそっという。帰る決心のついたことは良いことだ。この夜、妻は衣類を巻いて隣家の宗左衛門のあばの家へ裏からこっそり出ていった。そして、戻って来てから、
「宗左衛門の婆さん、宗左衛門の婆さん。」と嬉しそうに呟いている。話はこうだ。妻が一俵四百円で米を売ってはくれまいかと頼むと、この寡婦は眼を丸くぱちぱちさせていてから、暫くして、
「罰があたる、罰があたる。」とそう二言いって顔を横に振ったそうだ。「そんな高い金では売られない。供出すると六十円だぞ。それに
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