台所をばたばたと活気づけるのだが、この利枝は来るたびにまた板の間を、拭く癖がある。
「ここはおれの生れた家だでのう。こうしてふき掃除して美しゅうして置かんと、来た気がせんわ。」
別に私たちへの当てつけではない。私の部屋の縁先まで拭きつづけてくれては、一寸休むと庭の竹林を眺めている。
「むかしは美しかったがのう、ここの庭は。それにもう石も樹も、ありゃしない。」
この老婆は立てつづけにべらべらと無邪気に喋り散らすかと思うと、すぐ炉端でい眠っている。七十年間、一里半向うの漁村とこの村との間より往き来をせず、その二村のことなら何事も知っていて、人が聞こうと聞くまいと、のべつ幕なしに話すので、およそのこと、誰が誰から幾ら儲けたとか、誰が誰を口説いて嫁にしたとか、狐が誰にひっついたとか、――私の子供までが知ってしまう。清江はにこにこして聞いているが、
「あれで家へ帰れば、嫁に虐められるのだがのう。」と私の妻にそっという。
しかし、いつ見てもこの由良の老婆は美しい。私にもしこんな老婆が一人あったなら良かっただろうと思う。いっか一度、参右衛門たちの集っているところで、「あのお婆さんは美しい人だなア。」と、ふと私が洩すと、一同急に眼を見張って私の方を見た。そして、意外なことを云うものだと不思議そうに黙ったことがあるが、漁村の白毛の老婆の美醜などいままで誰も気にとめたことはなかったのだろう。この老婆のいるために、私にはこの村や山川がどれほど引き立ち、農家の藁屋根や田畑が精彩を放って見えているか知れない。そういえば、参右衛門の怠けぶりもまたそうだ。彼が徹底した怠けものであるところが、何となくこの村に滑稽でゆとりのある、落ちついた風味を与えている。配給物の抽籤のとき彼はいつも一等を引きあてるが、どういうものか、それがまた人人の笑いを波立てる。
夜になると、炉端で清江が畑から切って来た砂糖黍《さとうきび》の茎を叩いている。この寒国でも今年から砂糖黍を植え始め、自家製の砂糖を作るのだが、それも今夜が初めてで炉端もために賑やかだ。一尺ほどの長さに切った茎を大きな俎《まないた》の上で叩き潰しては、大鍋の中へ投げ入れ投げ入れして、
「ほう、これや甘い。なるほど、これなら砂糖になるかもしれないや。」
太股をはじけ出した参右衛門は、糖黍の青茎を噛《かじ》ってみてはふッふ、ふッふと笑っている。
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