四百円――罰があたる、罰があたる。」とまた云った。
「それだって、お米が買えなけれやあたしたち、餓え死するわ。売って下さいよ、四百円でね。」
「売られん売られん。この間も常会で、二百円までなら闇じゃないということになったでのう。おれは闇は大嫌いだ。百五十円なら一俵だけだと、何とかなるが。」
「でもそれじゃあんまりだわ。じゃ、三百円。」と妻は云った。
 横から、東京へ嫁入して手伝いに戻っている娘が聞いていて、妻の持って来た衣類を見ると、「欲しいのう。おれの着物にしてくれ。」と云い出した。そこで話は、米は売らぬが足らぬ前だけ少しずつならやるという相談になったらしい。
「今どきこんな人もいるのかしらと思ったわ。あたし、帰りに二度も転んで、ああ痛ッ、ここ打って――ああ痛ッ。」
 妻は横に身体を崩し今ごろ腰を撫でている。上には上があり、下には下があるものだと私は思った。

 十一月――日
 山峡から山の頂へかけて一段と色を増して来た紅葉。ゆるぎ出て来たように山肌に幕を張りめぐらせた紅葉は、人のいない静かな祭典を見るようだ。鮮やかなその紅葉の中に日が射したり、驟雨が降りこんだりする間も、葉を払い落した柿の枝に実があかあかと照り映え、稲がその下で米に変っていく晩秋。朝夕の冷たさの中から咲き出して来た菊。どの家の仏間にも新藁の俵が匂いを放っていて、炉端の集団は活き活きした全盛の呼吸を満たして来る。

 参右衛門の仏間の十畳も、新藁でしっかり胴を縛った米俵が重重しく床板を曲らせて積み上り、先ず主婦の清江の労苦も報われた見事な一年の収穫だ。確実に手に取り上げてみた事実の集積で、心身の潔まるような新しい匂いが部屋に籠っている。明るい。――しかし、まだ出征している清江の長男は帰って来ない。遠山にもう雪がかかっているのに。

 銀杏の実が降って来る。唐芋という里芋と同じ芋は、ここでは泥田の中で作っているが、清江はこれを掘りに朝からもう泥の中へ浸ってがぼがぼ攪き廻している。私は感動より恐怖を覚えた。もうこの婦人は労働マニアになっているのではあるまいか。

 私は沼の周囲の路をまた一人で歩いてみる。この路は平坦で人のいたことは一度もない。垂れ下った栗の林に包まれ落葉が積っているので、つい私はここへ来て一人になる。そうすると、いつも定って私の胃には酸が下って来て腹痛になり、木の切株に休みながら沼に
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