を越して、羽黒、湯殿、月山、三山の重なりを見ていると、それと自然に対抗したくなって来る鞍乗り心地で、むかしこの地を本陣とした西羽黒の対立心が、向うの東羽黒に敗れ、滅亡の因を作ったことも頷《うなず》かれる眺望である。前方の鳥海山も今日は見事な晴れ姿だ。
「海がこうして見えて来ないと、あたしにはいい景色には見えないんですもの。ここだといいわ。ほんと、素晴しいわ。」
「今ごろ云ったってもう駄目だ。」
柴を背におい、鞍乗の尾根路を左に登りながら、妻はここの海の見える所へ家を一つ建てたいとまた云い出した。しかし、ここでは水を下から運ばねばなるまい。海からの風も激しくあたることを予想しなければならぬ。
「僕はここから海までの草原の傾斜を牧場にすれば、いい牧場になると思うが、と話したことがあるんだ。そうしたら、菅井の和尚さん、専門家がいつか来たときも、ここは牧場としては理想的だといったそうだ。」
自慢の形になったが、その実、チロルの草原でこのような所に鈴を首につけた牛がひとり歩いていたのを思い出し、牧場の専門家も同様な所を見て来たのであろうと私は思ったりした。
「やっぱりここは絶景だよ。こういうのを絶景といわずに、いい景色はないものだ。」
私はもう柴など拾いたくはなく、縄を腰にくくりつけたまま灌木の間をぶらぶらした。鮮紅の茨の実が滴り落ちた秘玉のようで、秋の空がその実の上であくまで碧く澄んでいる。もしこれで右手の入りこんだ平野が海だったら天の橋立という感じになるここの尾根だ。しかし、海であるより平野のこの方が変化があって私には好ましい。
今から十七八年も前のある夏、ここから一里ほど左方の由良という漁村へ海水浴に来て、私は機械という作をそこで書き上げたことがある。先日も由良はここから近いと聞いてなつかしくなり、峠越えに出かけてみた。終戦後二日目、私も元気がなく思い出を辿るばかりだったが、私の借りていた二階の部屋を下の路から見上げると、その窓から見知らぬ疎開者の女が一人、これも頬杖ついたまま行くさき分らぬ思案貌で私を見降ろしていた。十八年前の家主の和田牛之助は死んでいて、そのときは、私は中へも入らずそのまま夕暮の漁村を素通りして来た。私のいまいる家の参右衛門の所で生れた老婆の利枝は、この由良へ嫁入って来ているので、その日私は利枝の家で魚の御馳走になったりした。
「由良の婆さ
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