入っていった。むかしは人から手伝って貰わなければ刈れなかった彼らの広い稲刈だったのに、今はその反対で、鳥の巣の夢を抱いたようなさみしさがしっとり夜をこめている。何となく、しんと淋しい夜だ。

 十月――日
 久しぶりの好天だ。風がまだ残っているので、高い梢の桐の実が真っさきに乾いていく。野葡萄の汁が瓶の中で酒の匂いをたてている。酢を作る青柿の皮が樽につめられた。納豆の粘液をためす火箸が藁の中へ刺さり、天井の明り口は煙を吸い上げ、塗戸の杉の目が炉の焔の色を映して明るい。

 私は妻と二人で裏の山へ柴刈りに出かけた。二人の目的は十二三分で登れる鞍乗りの峠まで行くことだが、この峠までの坂は息苦しい。焚木を拾い拾い登ると一歩ごとに、平野は眼の下に稀に見る美しい全貌を顕して来る。私は煙草用のいたどりを採りに一人でよくここへは来たものだが、妻は初めて登るので、なるたけ柴より景色を見せてやりたい希望を持って来ているのに、この女人はどういうものかまた柴ばかり探している。そのうち私は少し腹が立って来た。
「たまに来たんじゃないか。もっと景色を見なさい景色を。」
「だって、もう見たんですもの。」
「これだけの景色は、そうざらに有るもんじゃないよ。絶景といってもいい。」
「絶景だ絶景だと仰言るもんだから、どんなにいいかしらと思っていたわ。こんなの、山と田ばかしじゃありませんか。」
 しかし、景色というものはそういうものかもしれないと私は思った。どこが良いのかと考え出したが最後、どのような景色だってもう駄目なものである。
「お前は小さいときからこのへんの山の景色に見馴れているから、珍らしくないのだよ。他国人の僕がお前の国の景色に感心してやってるのに、心の分らない女だなア。柴より頭だ。」
「いいえ、あたしは柴柴。」
 自分の一生は何んだかふとこれに似たことばかしのような気がして来たが、しかし、私はこれで良いのだと思った。谷間いっぱいに生えているいたどりはもう黄色く枯れかかっている。私は随分これで煙草の代用として助かったのだが、今のうち採って置かぬと用にはならぬかもしれない。峠まで登ったところで、下に秋の冴えた海が見えて来た。馬の背に跨がった感じのこの鞍乗峠はいつ見ても眺望は優れている。私はもう夫婦喧嘩はやめにした。ほとんど垂直になだれ下った草原の断崖に挟まれた海面は、今日は穏かだ。右手の平野
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