ん、来るといいね。」
「もうそろそろ、いらっしゃるころよ。」
 と妻はいう。この老婆の利枝は私も妻も好きで、子供たちも老婆の声がすると、「そら来た。」と跳び出て行くほどだが、私が牛之助の二階にいたあの当時同じ浪を見ながら、老婆は何をしていたものだろう。私と妻はむかしの夏の海水浴の日のことを今日も柴を探しながら灌木の間で話した。紅《くれない》の茨の実はそっと耳を立てているようだ。ぴっちり詰った海水着の水に浸る音を聞く風なその眼差し。――ああ、こ奴――
 柴は相当に出来たので暫く二人は海を見ていてから、山を降りることにした。
「よっこらしょ。」と、妻は云って柴を背中に舁《か》いだ。どういうものか柴を背負うと急に自分の年を思い出す。どっちも姿を見合いながら、
「もう駄目らしいぞ。お前もおれも、爺さん婆さんになったもんだ。」と私たちは笑い合った。
「しっかりしましょうよ。元気を出して下さいね。」
「いや、もうおれは諦めた。」
「でも、もう一度若くなるのは、あたしいやだわ。あんなこと、もうこれで沢山沢山。」
 栃の実の降っている谷間を見降ろしながら、坂はだだ下りの笑いで一気に終りになってしまった。

 十月――日
 晴れたかと思うとこの日も驟雨だ。遠山に包まれた平野の架《はさ》の棒に刺さった稲束が、捧げつつをした数十万の勢揃いで、見渡すかぎり溢れた大軍のその中に降り込む驟雨。くっきり完壁の半円を描いた虹に収穫を飾られた大空の美しさ。本家の参右衛門の家では、夕暮から餅搗《もちつ》きをやり出した。例の鳥の巣の祝いである。大力の天作が搗くのでたちまち一臼が出来上り、私たちも鳥の巣餅を食べる。さみしい希望――

 十月――日
 山頂に一本高く見える楢の木に、日ごとに多く日本海の方から鶸《ひわ》の群が渡って来て止る。谷間の樹の根に溜り込んだ栗の実。一雨ごとに落ちた胡桃が籠に積ったまま触れるもののない板の間で、魚の匂いを嗅ぎ廻っている黒猫。花序を白ませた紫苑の丈が垣根に添い崩れて来る。

 別家、久左衛門の家の末娘のせつに縁談が起った。それがどちらも好調の様子で、仏の口という例の巫女からもこれは良縁と折紙がついて、彼の家はこのごろとみに色めき立っている。婿は新庄在の青年で牧場の種馬つけとかいう。大兵肥満の厚い唇の、この青年は、もう遠い新庄から汽車で来ており、久左衛門の家から一向に帰って行
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