ことはない。がたりとメートル器の針の揺れ動くのを見る思いで、黒い輸送車の中の、丁度私の眼の高さにある青年の胸の釦《ボタン》を満開の花弁のように瑞瑞しく眺めていた。
しかし、この炭箱の中で私は負けてばかりもいられなかった。私にも、田川温泉の思い出には少しは匂やかな秘めごともあるにはある。それもこの青年のような年のころで、まだ私が妻と結婚し立ての春のこと、――私は初めて妻の実家へ来て、妻の父から仕事場には鹿のいる田川温泉が良かろうということになり、ここで中央公論へ出す「笑った皇后」という作を書いていた。ネロ皇帝の妻のことを書いているのだが、そのときにも、実家からときどき妻は鹿のいる私の宿へ会いに来だ。ある日、妻の見えない日で、私がただ一人男の湯舟にひたっていると、隣りの女の湯舟にも誰か来て、これもただ一人で湯の音を立てていた。初めは気附かずに私は、ネロが友人オソーの妻を口説く科白を考えながら、少し滑稽にしないとネロの性格がよく出ないので、「お前の足は、お前の足は。」と、そんな文句を呟いているときである。私の足のあたりで湯がしきりに揺れ動くのを感じた。ふと下を見ると、ここの湯舟は隣室とのへだてが板壁だけで、下の湯水は一つに続いて断ってなく、午さがりの光線の射し込んだ透明な湯の底から、隣室の女の足のくの字に揺れる白い綾を見た。実に美しい。顔や姿がまったく見えずに、伸びたり縮んだりする足だけ見える湯の妖艶さは、遠い記憶の底から、揺らめきのぼって来る貴重な断片の翻える羽毛のような官能的な柔軟さに溢れている。これはここの湯舟だけであろうか。ネロに攻められ、侍女と二人で湯に浸りつつペトロニユスの死んでゆくときのあのローマも、このような湯の中の美しさはなかったであろうと感慨も豊かになり、私はなお女の足を見ながら、時間は相当前からつづいていたのだからもっと早くから眺めていれば良かったと残念に思っていた。
「あなた、お分りになって。」
そのとき突然、隣室からそう呼んだ。声はたしかに妻のようだった。どうもおかしい。私はしばらく黙っていてから「お前かい。」と訊ねてみた。
「ええ。そう。」と妻は壁の向うで答えた。
「何んだ、いつ来た。」
「さっき、一時のバスで。お待ちしてましたのよ。」
「ふむ、もう少し脚を見せなさい。」
「いや。」と云って、妻はすぐ脚をひっ込めた。
「お前の脚は、夜の鹿
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