のようにすらりとしている。」と、とうとうネロにこんな形容詞を私は云わせて了う始末になったが、このとき湯の底で覗いた透明な脚の白さは、二十年なお私の眼底に残っている鹿の斑のような哀感ある花である。恐らく私の前の青年も第一候補と整えばこうしてここへ再び来ることだろうが、もう今はどの浴槽もローマの湯のように文明になっている。

 夜、家人がみな寝てしまったころ、長男がひょっこり東京から帰って来た。自家の畑で採れたさつま芋をリュックに一杯つめていて、ひどく疲れている様子だ。今年初めて採れた畑の芋なので私は袋の口を開け、芋の頭を一寸撫でてから寝た。
「どうだった東京。」妻は起きてきて子供に訊ねた。
「面白いよ、ジープがぶうぶう通っている。」
「餓え死にしてる人、沢山いて?」
「そうだね。僕、朝からピアノばかり弾いていて外へなんか出なかったから、分らない。」
「つまらないこと、東京のお話たったそれだけね。」
 私と妻は、東京から来た客ということだけで、子供まで別人になったように見ている人間に、いつの間にかなっている。そろそろ私一人だけでも帰ろうと思う。ただ私としては収穫時を見終ってしまいたいと思うだけだが、村人の親切さに対してこれ以上、観るという心でいることに耐えられそうにもない。

 十月――日
 ときどき我ながらいやな気持ちが起って来る。私が疎開者同様のくせにどこか疎開者らしくない気持ちの起ることだ。事実、私はまだ東京の所帯主でここでは私の妻が所帯主になっている。妻と子供が疎開者で私だけはそうではなく、研究心をもって来ていることが、一つの義務だと思うある観想の仕わざのためだ。これでも初めに比べればよほど私も謙遜になっているのを感じるが、妻がこの村に対して感謝しきっている心とは、まだよほど私の方は好ましからざるものがあるようだ。
 五月二十四日の空襲のときは群長として役目をすませ、私でも町会から十円の賞を貰って東京を立った。立つときも留守居のHとIとに依頼し、炭焼を研究して来たいと思うがすぐ帰ると云って出て来たので、私には疎開者だと思う気持ちはいまだにない。それが悪く邪魔をしている。倦くまで研究心を失いたくはないと思う虚剛と、人間らしからざる観察者の気持ちを伏せ折りたくもあって、個人の中のこの政治は甚だ調和を失って醜い。私はまだ文学に勝ってはいないのだ。先ず第一にこれに打ち勝
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