自分がどちらに属しているか一切云わなかったようだった。またこの術を研究し始めてからの彼は、それまで夢中になって読んでいたヴァレリイのことについても、ぱったり口にしなくなったばかりか、ひどく人間が真面目になり、私の応接室用の煙草を三本吸うと、その日帰ってから別に三本持って返しにわざわざ来たりした。おそらく彼は天上派だったのであろう。
「しかし、天上派も堕落派もどちらも決して使ってはならぬという封じ手が一つあるのです。相手の背のある部分を軽くぽんと叩く手ですがね。これをやると、やられたものは何時間か後で、ぱったり死んでしまうのです。」
そうも云ってからAはまた、ある堕落派の天才で一人、大阪で誰からとも分らず斬り殺されたもののあったことを話した。それは非常な天才で、それが人から斬られるということは習練者ら一同の理解し兼ねることだったが、あるとき謎が解けた。その男は満洲を渡っているとき、人知れず苦力《クーリー》の背に封じ手を使ってみて、後からひそかに蹤《つ》いて行くと、やはりぱったりと仆《たお》れたまま死んだという。
「リアリストの最期か。」
と、そのとき二人は笑ったことがある。国にも思想にも文学にも、封じ手はあるものだと、いま私はそんなことを思っている。
十月――日
三日間家をあけていた。村へ帰ったときは相当に疲れが出て、痔病がひどく悪くなったが、この洞窟のような奥まった六畳の部屋も体を崩すには足る。薄煙りが炉の方から流れて来ているのもわが家らしい。私は妻をからかいたくなる話を一つ溜めて戻って来ているので、それを一つと思うと自然ににやにやなって来た。話の材料というのはただの笑話にすぎぬものだが、もしかしたら、私が誰かに冗戯《ふざ》けられていることかもしれない廻転の深さも含んでいる。
一昨日鶴岡の多介屋で一泊している折のこと、さて今朝は帰ろうと思って腰を上げかけると、S市から二人の有望な大地主の青年が嫁見立に来る。間もなく来ることだろうから、私にもその見立てに参加して意見をきかせてくれと頼まれた。待っていると正午ごろ来た。二人とも、見るからに一鞭あてて今や疾走しそうな溌剌《はつらつ》たる騎手のごとき軽快な青年だ。この嫁になるものは仕合せだと私は思った。一人は兵隊から帰ったばかりで眼が明るく大きな体をのびのびとさせている。それが花婿だ。他の一人は眉目きらめき立った
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