岡へ出かけて行っていない。今日は煙草をどうかして手に入れたいと思い、私も鶴岡の多介屋へひとつ行って、本物の煙草を一ぷく喫ってみたくて堪らなくなると、跳び起きた。三番は十一時だ。

 三時ごろ多介屋本店へ着いた。主人の佐々木君が不在である。しばらく主人の帰りを店さきに腰かけて待っていると、入れ代り立ち代り本買いの客が来る。沢山なその中に混って一人、いつ来たのか、うすい丹前を着た、すらりと蒼い浪人風の品のある男が立って棚の本を眺めている。横から見ると、どう見てもA君だが、Aがまさかこんな鶴岡あたりに今ごろ来ている筈もないので、どうしているか今ごろは、定めし国の敗れたことを歎き悲しんでいることだろう。そう思っていると、やはりA君だった。彼は私を見つけて愕《おどろ》いたらしかったが、前からこういうときでも少しも表情に顕れない彼だった。すッと進んで来ていう。彼はある種の武術の習練者である。
「お元気で何よりでした。」
「ああ、実に珍らしいところで会ったもんだ。どうしました?」
 一ヵ月前から来ていること、ここで新妻を貰ったこと、沢山あった東京の彼の持ち家が全部焼けたことなどA君は語ったが、いつか私に話した米の生命力の予言の的中したことだけは一言も云わなかった。私もまた云うのは不快だった。
「またどうして、今日は?」とA君は訊ねた。私は長く切れていた煙草のことや、今いる山里のことなど云って笑った。
「ほおう。」
 終戦前まで半年ばかり彼が兵営にいたこともまた私は知ったが、敗戦のことに関しては、Aはやはり話を触れようとしなかった。実際、予言というものは的中するとひどく価値が薄れるもので、あんなことなど信じて何になったのかと、今さらどちらも思いあう味けなさだ。何ともならぬことを信じてさ迷っていた間Aは何をしていたのだろうか。
「私のやっている術には、天上派と堕落派と二つがむかしからありましてね。」
 と、彼はいつか、日本最古の武道だといわれる、相手に触れずに敵を倒すその術について私に語ったことがある。それによると、天上派は女人を一切身の傍へ近づけず、滝に打たれ霞を呼吸して山中で技を磨くのに対し、堕落派の方は女から女を渡り歩いて技を磨くのだとの事で、またこの二つは決して仕合をしないということ、それ故にどちらが優っているかいまだに誰にも分っていないということなど語ったが、このときもAは
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