。
「ああ、あの山山は。」と、トルストイがコーカサスの山脈を見て、こう感歎したのは、平坦な草原ばかりを見ていたモスコウ人のせいだけではないだろう。
「汝自身を知れ。」とデルフォイの神殿に銘された文字が哲学の発生なら、私らのここの山山には何があるのか。「人間であるということは何を意味するのか。」
雲の映った泥濘の中の水溜りを跳び跳び、ソクラテス以来のこの課題に悩まされた多くの哲学者たちの答案の結果が、ついに原子爆弾という天蓋垂れた下の人間の表情となって来た現在。このギリシャ以来の精神の連続と、私という人間と、どこにいったい関係があったのかと私は考えた。何にもない。かの山山は、物部、蘇我二族の殺戮《さつりく》しあう血族の祈りだけだった。神は一度も通った様子のない憂鬱な山脈のところどころの窪みに、仏が巣をちょぴりと結んだだけではなかったか。そして、私はまだ絶望さえしていない。
広い平野の稲の中から突然フランス語に似た発音で、
「ダダ、どこへ行く。」
と、呼ぶ声が聞えた。見ると、宗左衛門のあばだ。くるくるした、いつもの驚いたような眼が私の方を見て懐しそうに笑っている。円顔の嫁も手甲を額にあてて一緒だ。
うす紫の鳥海山を背にし、あばは光った鎌の刃で駅の方をさした。
「あっちか。」
「そうだ。」と私は頷《うなず》いた。この村で向うから話しかけてくる人は、この五十すぎの農婦だけだ。この寡婦は変人で嫌いなものには傍にいても言葉一つかけないそうだが、蝗《いなご》の飛ぶ中から呼ばれる気持ちは、日を仰ぐように明るく爽爽しい。しばらくは、後から稲の穂波がまだ囁《ささや》きかけ追っかけて来るような余韻を吹かせてくる。
十月――日
寝ながらあちこちで話す村人の会話を聞いていると、このあたりの発音は、ますますフランス語に似て聞える。この谷間だけかもしれないが、意味が分らぬからフランスの田舎にいるようで、私はうっとりと寝床の中で聴き惚れている。私の妻に云わせると、この村の言葉はこの国でも特殊な発音だとのことだが、まことにリズミカルで柔かい。起き出して夢破れるのはいやだから、なるべく、このような朝は朝寝をして、ここだけめぐる山懐にフランスが落ち溜っている愉しみで、じっと耳を澄ませている。人人の中でも宗左衛門のあばと参右衛門の発音が、一番フランス語に近い。
妻は真暗なうち一番の汽車で鶴
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