歌である。
一つの家に二家族が棲んでいると、何とかして一人きりになるときばかりを探すものだが、稀に落ちて来るそんな好運なときに限って、これはまた必ず久左衛門がのっそりとやって来る。彼に来られるのはこのごろ一種の恐怖になっている。しかし彼の機嫌をそこねたなら私はもうこの好きな村にはいられそうもない。それかといって、他に行ったところで、私のような労働力のない人間は、行くところすべてを苦しめるだけなので、人人にとって私は非常な荷厄介な人物だ。家人にとっても米一つ買えない主人というものは、どういうものかおよそ私には想像がついている。私の誇り得られることといえば、ただ僅に一日四杯より食べぬということだ。このため私に配給される分の二合一勺の中、五勺ぐらいは誰か他のものの分になっており、これだけはどこへ行こうとも私は人人に恵んでいるわけだが、それも習慣になると何の効きめもない。私は駅まで半里の道を歩くとき、両側の波うつ稲の穂を眺め、外国から帰ったときここで胸うち上って来た感動を思い出して、この道は、今さら額に汗せぬものに与えられた厳しい罰を感じる道になったと思った。
今も私は久左衛門の来ない間にと、家をぬけ出て、醤油をとりに駅の方へ、またいつものその道を歩いた。半里、平面ばかりで家一つない真一文字の道だ。どういうものか、真っ直ぐな道というものは、物を考えるより仕様のない退屈なものである。私はこの道でどれほど色んなことを考えたか知れない。またこの村の人たちが意外に頭の良いのは、自然にこの道で日ごろの考えを整えさせているからではあるまいか、とも思ったりする。
「神や仏はあるものじゃ。」
こんなことを久左衛門が云ったりすることも、この長い道が訓えたからではあるまいか。私も人から受けた恩のことを考えたり、友人の有難さや、人生の厳しさや、夫婦の愛や、子供の教育や、神のことなぞ、次ぎから次ぎと考えつづけて停めることの出来なかったのもここで、妻や子供がよく、
「あの道はたまらないわ。長くって。」
と云ったり、「そうだねえ。」と子供が云ったりするのも、何か矢っ張り各自に考えさせられているのである。ここを一度通って来ると、昨日の自分はもう今日の自分ではなくなっていて、その日はその日なりに人は文学をして来るのだ。そして、ふと頭を道から上げたとき、遠空に連った山脈の何と威厳をもった美しさか
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