ろが二三日前の朝のことだが、どんぶり鉢が炉端で転がる激しい音を立てたことがある。同時に、
「二升|米《まい》食うやつあるか。」と参右衛門は呶鳴《どな》りつけた。
訳を訊くと、次男の二十三になる白痴の天作が、新米に代った日、思わず二升ひとりで食べたということだった。運悪くその前夜久左衛門が来て、大阪の商人で一俵千円で村の米を買ったという話のあった折だった。五円が村の相場となっているときの千円の値は、驚倒すべき事件で、そのときから米価は鰻のぼりに騰って来たが、まだ東京の値など村のものには話せない。
十月――日
出払って誰も人のいない家の中に、拭き磨かれた板の間が黒く光っていて、そこを山羊がことこと爪音を立てて歩いている。追おうかと思ったが私はやめて見ていた。純白の毛が広い板の間の光沢に泛き出し、貴族の館のような品位であたりが貴重な彫刻を見るようだ。蚤と蝿とに苦しめられている時の私には、思わぬひっそりとした朝の一刻の独居だ。誰か歯形を白くつけたままの柿の実が樹に成っている。山腹の木の葉が紅葉しかけている。私は炉に火を焚きつけて湯をかけた。
そこへ、白痴の天作がひとり早く白土工場から帰って来た。天作と二人きりになるのは私には初めてだ。炉端に坐らせ、私は彼に茶を出した。
「どうです。」
「うむ。」と天作は云ったままごくりと一口に飲んだ。胸からはだけ出た逞しい筋肉だ。
「どうです。」とまたもう一杯。
それも忽ちひと舐めだ。どこか薄笑いの漂ったいつもの顔で、多少は照れるのか横を向き、あぐらをかいている。人から茶など出されたことは二十三歳初めてと見えて、さらに一杯注ぐと、「もうええ。」と云った。
「工場は休み。」
「うむ、硫酸がない云うてたの。」
これでは、人の云うほど天作は白痴ではなさそうだが、一日に二升を食べる彼を思うと、「人ではないの。」とつい私も云いたくなった。一日四杯と、二升とこっそり対《む》き合っているこの朝の景色は、至極のどかだ。格子から見える山の上に一本高く楢の木が見えていて、そこへ群落して来た鶸《ひわ》が澄んだ空に点点と留っている。天作はいつもする癖が出て敷居を枕に横になった。足の裏が私の方を向いているので、
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足のうら黒き農夫を見てをれば流れ行く雲日を洩しけり
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そんな短歌が一つ出来た。私には初めての
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