無常の風
横光利一
幼い頃、「無常の風が吹いて来ると人が死ぬ」と母は云つた。それから私は風が吹く度に無常の風ではないかと恐れ出した。私の家からは葬式が長い間出なかつた。それに、近頃になつて無常の風が私の家の中を吹き始めた。先づ、父が吹かれて死んだ。すると、母が死んだ。私は字が読める頃になると「無常」の風とは「無情」の風にちがひないと思ひ出した。所が「無情」は「無常」だと分ると、無常とは梵語で輪廻の意味だと云ふことも知り始めた。すればいづれ仏教の迷信的な説話にすぎないと高を括つて納まり出したのもその頃だ。その平安な期間が十年も続いて来た。もう私は無常の風が梵語であらうがなからうが全く恐くはなくなつてゐた。すると、父が急に骨になつた。それから私は母を引きとつて郊外に住まつてゐた。母は隣家の主婦と垣根越しに新しい友情を結び出した。暇さへあれば彼女は額に手をあてて樹の間から故郷の方を眺めてゐた。ある日、母は「アツ」と云つたまま死んでしまつた。一ヶ月たつた。隣家の主婦はもう垣根の傍に立たなくなつた。すると、彼女の家の人が来て、「母は今朝、アツと云ふと鍋を下げたまま死にました。」と云つた。全く
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