視を思ふと図太くその方許りを見続けることが出来なくなつた。彼は母に知れるやうにあちらこちらに眼を置き変へた。そして、右手の雛壇の隅で長唄を謡つてゐる年増の醜い女を見あてたとき、ここならよからうと思つて、眼の置き場をそれに定めた。直ぐ首条に疲れを感じたが耐へてゐた。彼の横に彼の年頃の学生が一人自由に踊を眺めてゐる。彼は羨しく思つた。
父は初から絶えず舞台の方を向いてゐた。子は父を有りがたく思つた。
間もなく踊は済んだ。まだ早かつたので電車通りに出てから三人は街を見て歩いた。子は下駄を引摺るやうにして黙つて親等の後に従いた。歩き乍ら、恋人を抱いた時の自分の姿を思ひ浮べた。今母の眼の前で、傍を通る少女を一人一人攫へてキツスしてやらうかと考へた。
「もうし、光がね万年筆が欲しいんですつて。」と母は不意に良人に云つた。
「入りませんよ。」と子は強く云つて母を睥んだ。
父は黙つてゐた。
母は子の方を振り向いて、
「お前欲しいつて云うてたやないの。」と笑ひながら云つた。
「そんなこと云はない。」
が、実は言つたと子は思つた。
ある文房具店の前まで来た時、父は黙つてその中へ這入つていつた。
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