廻している切符きり、と云った青年であった。
「お話をきくと毎日が大変らしいようですね。」
 先ずそんなことから梶は云った。栖方は黙ったまま笑った。ぱッと音立てて朝開く花の割れ咲くような笑顔だった。赤児が初めて笑い出す靨《えくぼ》のような、消えやすい笑いだ。この少年が博士になったとは、どう思ってみても梶には頷《うなず》けないことだったが、笑顔に顕《あらわ》れてかき消える瞬間の美しさは、その他の疑いなどどうでも良くなる、真似手《まねて》のない無邪気な笑顔だった。梶は学問上の彼の苦しみや発明の辛苦の工程など、栖方から訊き出す気持はなくなった。また、そんなことは訊《たず》ねても梶には分りそうにも思えなかった。
「お郷里《くに》はどちらです。」
「A県です。」
 ぱっと笑う。
「僕の家内もそちらには近い方ですよ。」
「どちらです。」と栖方は訊ねた。
 T市だと梶が答えると、それではY温泉の松屋を知っているかとまた栖方は訊ねた。知っているばかりではない。その宿屋は梶たち一家が行く度によく泊った宿であった。それを云うと、栖方は、
「あれは小父の家です。」
 と云って、またぱッと笑った。茶を煎《い》れ
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