れる。誰も分ってくれやしない。」と栖方はまた呟いたが、歩調は一層|活溌《かっぱつ》に戞戞《かつかつ》と響いた。並んだ梶は栖方の歩調に染ってリズミカルになりながら、割れているのは群衆だけではないと思った。日本で最も優秀な実験室の中核が割れているのだ。
 栖方が待たせてあると云った自動車は、渋谷の広場にはいなかった。そこで二人は都電で六本木まで行くことにしたが、栖方は、自動車の番号を梶に告げ、街中で見かけたときはその番号を呼び停《と》めていつでも乗ってくれと云ったりした。電車の中でも栖方は、二十一歳の自分が三十過ぎの下僚を呼びつけにする苦痛を語ってから、こうも云った。
「僕がいま一番尊敬しているのは、僕の使っている三十五の伊豆《いず》という下級職工ですよ。これを叱《しか》るのは、僕には一番|辛《つら》いことですが、影では、どうか何を云っても赦《ゆる》して貰いたい、工場の中だから、君を呼び捨てにしないと他のものが、云うことを聞いてはくれない、国のためだと思って、当分は赦してほしいと頼んであるんです。これは豪《えら》い男ですよ。人格も立派です。そこへいくと、僕なんか、伊豆を呼び捨てに出来たもんじゃありませんがね。」
 この栖方のどこが狂人なのだろうか、と梶はまた思った。二十一歳で博士になり、少佐の資格で、齢上《としうえ》の沢山な下僚を呼び捨てに手足のごとく使い、日本人として最高の栄誉を受けようとしている青年の挙動は、栖方を見遁《みのが》して他に例のあったためしはない。それなら、これからゆく先の長い年月、栖方は今あるよりもただ下るばかりである。何という不幸なことだろう、梶はこの美しい笑顔をする青年が気の毒でならなかった。
 六本木で二人は降りた。橡《とち》の木の並んだ狸穴《まみあな》の通りを歩いたとき、夕暮のせまった街に人影はなかった。そこを坂下からこちらへ十人ばかりの陸軍の兵隊が、重い鉄材を積んだ車を曳《ひ》いて登って来ると、栖方の大尉の襟章を見て、隊長の下士が敬礼ッと号令した。ぴたッと停《とま》った一隊に答礼する栖方の挙手は、隙《すき》なくしっかり板についたものだった。軍隊内の栖方の姿を梶は初めて見たと思った。
「もう君には、学生臭はなくなりましたね。」と梶は云った。
「僕は海軍より陸軍の方が好きですよ。海軍は階級制度がだらしなくって、その点陸軍の方がはっきりしていますか
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