らね。僕はいま陸軍から引っ張りに来ているんですが、海軍が許さないのです。」
 水交社《すいこうしゃ》が見えて来た。この海軍将校の集会所へ這入《はい》るのは、梶には初めてであった。どこの煙筒からも煙の出ないころだったが、ここの高い煙筒だけ一本|濛濛《もうもう》と煙を噴き上げていた。携帯品預所の台の上へ短剣を脱《はず》して出した栖方は、剣の柄のところに菊の紋の彫られていることを梶に云って、
「これ僕んじゃないのですが、恩賜の軍刀ですよ。他人のを借りて来たんです。もうじき、僕も貰うもんですから。」
 子供らしくそう云いながら、室の入口へ案内した。そこには佐官以上の室の標札が懸っていた。油の磨きで黒黒とした光沢のある革張りのソファや椅子《いす》の中で、大尉の栖方は若若しいというより、少年に見える不似合な童顔をにこにこさせ、梶に慰めを与えようとして骨折っているらしかった。食事のときも、集っている将校たちのどの顔も沈鬱《ちんうつ》な表情だったが、栖方だけ一人|活《い》き活《い》きとし笑顔で、肱《ひじ》を高くビールの壜《びん》を梶のコップに傾けた。フライやサラダの皿が出たとき、
「そんな君の尉官の襟章で、ここにいてもいいのですか。」と梶は訊《たず》ねてみた。
「みなここの人は僕のことを知ってますよ。」
 栖方は悪びれずに答えた。そのとき、また一人の佐官が梶の傍へ来て坐《すわ》った。そして、栖方に挨拶《あいさつ》して黙黙とフォークを持ったが、この佐官もひどくこの夕は沈んでいた。もう海軍力はどこの海面のも全滅している噂《うわさ》の拡《ひろ》がっているときだった。レイテ戦は総敗北、海軍の大本山、戦艦大和も撃沈された風説が流れていた。
 珍らしいパン附の食事を終ってから、梶と栖方は、中庭の広い芝生へ降りて東郷神社と小額のある祠《ほこら》の前の芝生へ横になった。中庭から見た水交社は七階の完備したホテルに見えた。二人の横たわっている前方の夕空にソビエットの大使館が高さを水交社と競っていた。東郷|小祠《しょうし》の背後の方へ、折れ曲っている広い特別室に灯が入った。栖方は黄楊《つげ》の葉の隙から見える後のその室を指して、
「あれは少将以上の食堂ですが、何か会議があるらしいですよ。」と説明した。大きな建物全体の中でその一室だけ煌煌《こうこう》と明るかった。爽《さわ》やかな白いテーブルクロスの間を白 
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