思ったが、それにしても、梶、高田、憲兵たち、それぞれ三様の姿態で栖方を見ているのは、三つの零《ゼロ》の置きどころを違《たが》えている観察のようだった。
 一切が空虚だった。そう思うと、俄《にわか》に、そのように見えて来る空《むな》しかった一ヶ月の緊張の溶け崩れた気怠《けだ》るさで、いつか彼は空を見上げていた。
 残念でもあり、ほっとした安心もあり、辷《すべ》り落ちていく暗さもあった。明日からまたこうして頼りもない日を迎えねばならぬ――しかし、ふと、どうしてこんなとき人は空を見上げるものだろうか、と梶は思った。それは生理的に実に自然に空を見上げているのだった。円い、何もない、ふかぶかとした空を。――

 高田の来た日から二日目に、栖方から梶へ手紙が来た。それには、ただ今天皇陛下から拝謁《はいえつ》の御沙汰《ごさた》があって参内《さんだい》して来ましたばかりです。涙が流れて私は何も申し上げられませんでしたが、私に代って東大総長がみなお答えして下さいました。近日中御報告に是非御伺いしたいと思っております。とそれだけ書いてあった。栖方のことは当分忘れていたいと思っていた折、梶は多少この栖方の手紙に後ろへ戻る煩わしさを感じ、忙しそうな彼の字体を眺めていた。すると、その翌日栖方は一人で梶の所へ来た。
「参内したんですか。」
「ええ、何もお答え出来ないんですよ。言葉が出て来ないのです。一度僕の傍まで来られて、それから自分のお席へ戻られましたが、足数だけ算《かぞ》えていますと、十一歩でした。五メータです。そうすると、みすが下りまして、その対《むこ》うから御質問になるのです。」
 ぱッといつもの美しい微笑が開いた。この栖方の無邪気な微笑にあうと、梶は他の一切のことなどどうでも良くなるのだった。栖方の行為や仕事や、また、彼が狂人であろうと偽せものであろうと、そんなことより、栖方の頬《ほお》に泛《うか》ぶ次の微笑を梶は待ちのぞむ気持で話をすすめた。何よりその微笑だけを見たかった。
「陛下は君の名を何とお呼びになるの。」
「中尉は、と仰言《おっしゃ》いましたよ。それからおって沙汰《さた》する、と最後に仰言《おっしゃ》いました。おれのう、もう頭がぼッとして来て、気狂いになるんじゃないかと思いましたよ。どうも、あれからちょっとおかしいですよ。」
 栖方《せいほう》は眼をぱちぱちさせ、云うことを
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