聞かなくなった自分の頭を撫《な》でながら、不思議そうに云った。
「それはお芽出《めで》たいことだったな。用心をしないと、気狂いになるかもしれないね。」
 梶《かじ》はそう云う自分が栖方を狂人と思って話しているのかどうか、それがどうにも分らなかった。すべて真実だと思えば真実であった。嘘《うそ》だと思えばまた尽《ことごと》く嘘に見えた。そして、この怪しむべきことが何の怪しむべきことでもない、さっぱりしたこの場のただ一つの真実だった。排中律のまっただ中に泛《うか》んだ、ただ一つの直感の真実は、こうしていま梶に見事な実例を示してくれていて、「さア、どうだ、どうだ。返答しろ。」と梶に迫って来ているようなものだった。それにも拘《かかわ》らず、まだ梶は黙っているのである。「見たままのことさ、おれは微笑を信じるだけだ。」と、こう梶は不精に答えてみたものの、何ものにか、巧みに転がされころころ翻弄《ほんろう》されているのも同様だった。
「今日お伺いしたのは、一度|御馳走《ごちそう》したいのですよ。一緒にこれから行ってくれませんか。自動車を渋谷の駅に待たせてあるのです。」と、栖方は云った。
「今ごろ御馳走を食べさすようなところ、あるんですか。」
「水交社《すいこうしゃ》です。」
「なるほど、君は海軍だったんですね。」と、梶は、今日は学生服ではない栖方の開襟服の肩章を見て笑った。
「今日はおれ、大尉の肩章をつけてるけれど、本当はもう少佐なんですよ。あんまり若く見えるので、下げてるんです。」
 少年に見える栖方のまだ肩章の星数を喜ぶ様子が、不自然ではなかった。それにしても、この少年が祖国の危急を救う唯一の人物だとは、――実際、今さし迫っている戦局を有利に導くものがありとすれば、栖方の武器以外にありそうに思えないときだった。しかし、それにしても、この栖方が――幾度も感じた疑問がまた一寸《ちょっと》梶に起ったが、何一つ梶は栖方の云う事件の事実を見たわけではない。また調べる方法とてもない夢だ。彼のいう水交社への出入も栖方一人の夢かどうか、ふと梶はこのとき身を起す気持になった。
「君という人は不思議な人だな。初めに君の来たときには、何んだか跫音《あしおと》が普通の客とどこか違っていたように思ったんだが。――」と梶は呟《つぶや》くように云った。
「あ、あのときは、おれ、駅からお宅の玄関まで足数を計って
前へ 次へ
全28ページ中15ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
横光 利一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング