の嘱目《しょくもく》だと説明した。高田の鋭く光る眼差《まなざし》が、この日も弟子を前へ押し出す謙抑《けんよく》な態度で、句会の場数を踏んだ彼の心遣《こころづか》いもよくうかがわれた。
「三たび茶を戴《いただ》く菊の薫《かお》りかな」
高田の作ったこの句も、客人の古風に昂《たか》まる感情を締め抑えた清秀な気分があった。梶は佳《よ》い日の午後だと喜んだ。出て来た梶の妻も食べ物の無くなった日の詫《わ》びを云ってから、胡瓜《きゅうり》もみを出した。栖方は、梶の妻と地方の言葉で話すのが、何より慰まる風らしかった。そして、さっそく色紙へ、
「方言のなまりなつかし胡瓜もみ」という句を書きつけたりした。
栖方たちが帰っていってから十数日たったある日、また高田ひとりが梶のところへ来た。この日の高田は凋《しお》れていた。そして、梶に、昨日《きのう》憲兵が来ていうには、栖方は発狂しているから彼の云いふらして歩くこと一切を信用しないでくれと、そんな注意を与えて帰ったということだった。
「それで、栖方の歩いたところへは、皆にそう云うよう、という話でしたから、お宅へもちょっとそのことをお伝えしたいと思いましてね。」
一撃を喰《くら》った感じで梶は高田と一緒にしばらく沈んだ。みな栖方の云ったことは嘘《うそ》だったのだろうか。それとも、――彼を狂人にして置かねばならぬ憲兵たちの作略の苦心は、栖方のためかもしれないとも思った。
「君、あの青年を僕らも狂人としておこうじゃないですか。その方が本人のためにはいい。」と梶は云った。
「そうですね。」高田は垂れ下っていくような元気の失《う》せた声を出した。
「そうしとこう。その方がいいよ。」
高田は栖方を紹介した責任を感じて詫びる風に、梶について掲っては来なかった。梶も、ともすると沈もうとする自分が怪しまれて来るのだった。
「だって君、あの青年は狂人に見えるよ。またそうかも知れないが、とにかく、もし狂人に見えなかったなら、栖方君は危いよ。あるいはそう見えるように、僕ならするかもしれないね。君だってそうでしょう。」
「そうですね。でも、何んだか、みなあれは、科学者の夢なんじゃないかと思いますよ。」高田はあくまで喜ぶ様子もなく、その日は一日重く黙り通した。
高田が帰ってからも、梶は、今まで事実無根のことを信じていたのは、高田を信用していた結果多大だと
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