碑文
横光利一
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)戍楼《やぐら》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、底本のページと行数)
(例)※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77、198−1]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)げら/\と笑ひ合つた。
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雨は降り続いた。併し、ヘルモン山上のガルタンの市民は、誰もが何日太陽を眺め得るであらうかと云ふ予想は勿論、何日から此の雨が降り始めたか、それすら今は完全に思ひ出すことも出来なくなつた。人々の胃には水が溜つた。さうして、婦女達の乳房はだんだん青く脹らみ、赤子や子供は水を飲まされた怒りのために母親の乳首を噛んだ。
最早や人々は空を見飽きた。高窓から首を差し出して空を仰いでゐるのを見ると、通行人は腹立たしさに歩道の上で嘲弄した。
「ああ、高窓からガルタンの太陽が現れた。」
忽ち怒つた顔が高窓から椅子や器物を歩道の上へ投げつけた。続いて礫が高窓を狙つて飛び込んだ。が、またそれは忽ちの間に鎮ると、後悔の標に、彼らの蒼ざめた顔が高窓の上と下とでげら/\と笑ひ合つた。
日に日に酒甕を冠つて横たはつてゐる酔漢が、歩道や廻廊や石階の上に増して来た。
「ガルタンの空は旱魃である。」
「ガルタンの市民は、レバノンの戍楼《やぐら》のごとく干されるであらう。」
彼らは瞞着した皮肉を浮べながら、酒舖から酒舖へ蹣跚として蹌踉めいていつた。が、彼らの頭は夜が来ると一様に冴え渡つた。時々深夜に狂つた管絃楽が突発した。すると、忽ち城市の方々からは、乱雑な舞踏が一斉に爆けた鋼螺《バネ》線のやうに噴出した。不眠に懊む者達は寝台の上から飛び降りた。さうして、彼らは何時の間にか、見ず知らずの者達と一つの集団を作りながら、歩道や廻廊の上を暴徒《モツブ》のやうに躍り廻つてゐる自分を知つた。が立ち停つて顔を見合せた瞬間、彼らは不可解な憎悪を感じて互に侮蔑の視線を投げ合ふと又躍つた。
併し、雨はへルモンの山に降り続いた。
「吾らの市民よ、ガルタンに危機が来た。へルモンの山に危機が来た。」
大道の四つ角で、片腕に酒甕を抱いたまゝ掌を振つて群衆に叫ぶ志士が現れた。すると、直ちに聴衆はなくなつて群衆は尽くその場で志士とな
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