民の間に自殺が流行し始めた。初め彼らの多くは、穢れたガルタンの慣習に怨恨を持つ失恋者や疾病者や不具者であつた。が、彼らを先駆に立てて、その後日を追つて益々健全な市民の多くが自殺した。さうして最早や彼らの首の動脈は、僅か一片の嘲笑と冷顔とで購ひ得るにいたつたが、しかし、彼らはその生の終末に臨んで、各々廻廊の壁に市民の罪業の数々を刻みつけた。彼らの懺悔の心は、彼らの過去の悪業を刻み、彼らの怨恨は、生き残る市民の秘めた悪徳を彼らに刻ませた。このため、日ならずして城市の壁は、穢れたガルタンの罪跡を曝露した石碑となつて雨に打たれた。人々は壁から壁へと押し流れて、日々に現れる新らしい壁の文字を読み渡つた。
「あゝ、爾は吾に石を背負せた銀子をもつて、イスラエルの女の首に手を巻いた。」
「あゝ、爾は吾が妻の腹に爾の子を落して逃亡した。」
「爾はシユラミの婦女のために、吾の娘を葡萄のごとく圧し潰した。」
「爾は一片の番紅花《サフラン》を得んとして、シオンの商人に身を投げた。」
「爾はアマナの山の牝鹿のごとく、八十人の男子に吾の眼を盗んで爾の胸の香物を嗅がしめた。」
「あゝ婚姻の夜の爾の唇は、廻り遶つた杯盤のやうに穢れてゐた。」
 ガルタンの城市では、このときから自殺の流行が衰へ始めると、それに代つて遽に殺人が流行した。怨恨者の復讐の剣は赤錆のまま、破廉を秘めた市民の胸へ公然と突き刺された。それに和してガルタンの賤民達は、一斉に歓楽の簒奪者として貴族や富豪を殺戮した。悲鳴と叫喚が幾日も続いていつた。廃れた花園や路傍の丈延びた草叢の中には、到る所男女の死体が、酒盃のやうな開いた傷口に雨を湛へて横たはつてゐた。併し、雨はます/\降り続いた。ガルタンの殺戮は次第にその勢ひを弱めていつた。が、それにひきかヘ、市民の肉体は日に日に激しい性の衝動を高め始めると、終にガルタンの城市はヘルモンの山上で、声を潜めた一大売淫所と変つて来た。彼らの中の薄弱な肉体は、横たはつたまゝに死へ落ちた。併し、空は彼らの頭の上で、夜を胎んだ雲のやうに層々として暗みを増した。さうして、今やガルタンの市民は、過去の一切の記憶を忘却し、眠りに落ちる青白い獣であるかのやうに、たゞ呆然と生きてゐるにすぎなかつた。
 ガルタンの中央のガンタアルの大路では、二人の市民が雨に打たれたまゝ、凡ゆる刺戟に麻痺した鈍感な眼をして立つてゐた。
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