比叡《ひえい》
横光利一

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)度度《たびたび》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)一同|揃《そろ》って
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 結婚してから八年にもなるのに、京都へ行くというのは定雄夫妻にとって毎年の希望であった。今までにも二人は度度《たびたび》行きたかったのであるが、夫妻の仕事が喰《く》い違ったり、子供に手数がかかったりして、一家引きつれての関西行の機会はなかなか来なかった。それが京都の義兄から今年こそは父の十三回忌をやりたいから是非来るようにと云って来たので、他のことは後へ押しやっていよいよ三月下旬に京へ立った。定雄は妻の千枝子が東京以西は初めてなので、定雄の幼年期を過した土地を見せておくのも良かろうと思い、一つは今年小学校へ初めて上る長男の清に、父の初めて上った小学校を見せてやりたくもあったので、一人でときどき来ている京阪の土地にもかかわらず、この度は案内役のこととて気骨も折れた。
 定雄夫妻は宿を定雄の姉の家にした。翌日は姉の子供の娘一人と定雄の子供の長男次男と、それに定雄夫妻に姉、総勢六人で父母の骨を納めてある大谷《おおたに》の納骨堂へ参った。すでに父母は死んでいるとはいえ、定雄は子供を見せに堂へ行くのは初めてのこととて反《そ》りを打った石橋を渡る襟首《えりくび》に吹きつける風も穏やかに感ぜられた。彼はまだ二つによりならぬ次男の方をかかえて、もう盛りをすぎた紅梅を仰ぎながら石段を登った。清より一年上の姉の娘の敏子と清とは、もう高い石段を真っ先に馳《か》け登ってしまって見えなくなった。定雄は石段を登る苦しさに身体がよほど弱って来ているのを感じた。彼はその途中で、今年次ぎ次ぎに死んでいった沢山の自分の友人のことを思いながら、ふと、自分が死んでも子供たちはこうして来るであろうと思ったり、そのときは自分はどんな思いで堂の中から覗《のぞ》くものであろうかと思ったり、世の常の堂へ参る善男善女の胸に浮ぶ考えとどこも違わぬ空想の浮ぶのに、しばらくは閉口しながら子供らの後を追っていった。しかし定雄は千枝子や姉を見ると、彼女らは一向父母の骨の前に出る感慨もなさそうに、あたりの風景を賞しながら楽しげに話しているのを見ると、それではこの中で一番に古風なのは自分であろうかと思ったりした。そのくせ京都へは幾度も一人で来ていながら、まだ彼は一度も墓参をしなかったのである。
 先きに行った子供らは定雄らがまだ石段を登り切らないうちに、もう上の境内を追っかけ合いをして来た足で、また石段を降りて来ると、今度は母親たちの裾《すそ》の周囲をきゃっきゃっと声を立てて追っ馳け合った。
「静になさい静に、また咳《せき》が出ますよ」と姉は敏子を叱《しか》った。
 しかし、子供たちは初めて会った従姉弟《いとこ》同士なので、親たちの声を耳にも入れずまたすぐ階段を馳け上っていった。
 一同|揃《そろ》って上に登り、納骨堂へ参拝して、それからいよいよ本堂で経を上げて貰《もら》わねばならぬのであるが、誦経《ずきょう》の支度のできるまで六人は庭向の部屋に入れられた。そこは日の目のさしたこともなかろうと思われるような、陰気な冷い部屋、畳は板のように緊《しま》って固く、天井は高かった。しかし、周囲の厚い金泥の襖《ふすま》は永徳《えいとく》風の絢爛《けんらん》な花鳥で息苦しさを感じるほどであった。定雄は部屋の一隅に二枚に畳んで立ててある古い屏風《びょうぶ》の絵が眼につくと、もう子供たちのことも忘れて眺《なが》め入った。葉の落ち尽した池辺の林のところどころに、木蓮《もくれん》らしい白い花が夢のように浮き上っていて、その下の水際《みずぎわ》から一羽の鷺《さぎ》が今しも飛び立とうとしているところであるが、朧《おぼ》ろな花や林にひきかえてその鷺一匹の生動の気力は、驚くばかりに俊慧《しゅんけい》な感じがした。定雄はこれは宗達《そうたつ》ではないかと思ってしばらく眼を放さずにいると、いつの間にか茶が出ていた。子供らは砂糖のついた煎餅《せんべい》を音無《おとな》しく食べていたが、定雄の末の二つになる子だけは、細く割りちらけて散乱している菓子の破片の中で、泳ぐように腹這《はらば》いになり、顔から両手にかけて菓子のかけらだらけにしたまま、定雄の見ている屏風を足でぴんぴん勢い良く蹴《け》りつけた。
「こりゃこりゃ」
 定雄は次男の足の届かぬように屏風を遠のけると、また倦《あ》かず眺めていた。しかし、火鉢《ひばち》に火のあるのに、ひどくそこは寒かった。これではまた皆|風邪《かぜ》にやられるどころか、定雄自身もう続けさまに嚔《くさめ》が出て来た。そのうちにようやく経の用意も出来たので本堂へ案内されたが、来てみると、ここは一層寒いうえ
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