に、勿論《もちろん》火鉢も座蒲団《ざぶとん》もなかった。定雄の横へ敏子、清と並んで、定雄の姉が彼の次男を抱いている傍へ千枝子が坐った。見渡したところ異常はなかったが、姉に抱かれている次男の突き出している足に、靴がまだそのままになっていた。しかし、次男の靴はまだ下へも降ろしたこともなく、足袋《たび》代りの靴と云えないものでもなかったので、定雄は注意もせずに黙って僧侶の出て来る方を眺めていると、姉はそれを見つけたらしい。
「あら、慶ちゃん、豪《えら》そうに靴を履《は》いたままやがな。これゃどもならん」
と云って、笑いながら慶次の靴をとろうとした。
「良い良い」と定雄は云った。
「そうやな、愛嬌《あいきょう》があってこれもお祖父《じい》さん、見たいやろ」
 姉の言葉に慶次の靴を脱《ぬ》がそうとした千枝子もそのままにした。清と敏子とは仏壇の方を一度も見ずに、まだ石段からのふざけ合いをつづけながら、肩をつぼめて「くっくっ」と笑い声を忍ばせて坐っていた。
 誦経が始ると一同は黙って経の終るのを待っていたが、後から吹きつけて来る風の寒さに、定雄は長い経の早く縮《ちぢま》ることばかりを願ってやまなかった。しかし、もしこれが父の回忌ではなくって他人のだったら、こんな願いも起さずにいるだろうと思うと、いつまでも甘えかかることの出来るのは、やはり父だと、生前の父の姿があらためて頭に描き出されて来るのだった。彼は父が好きであったので、父に死に別れてからは年毎に一層父に逢《あ》いたいと思う心が募った。父は定雄の二十五歳のときに京城《けいじょう》で脳溢血《のういっけつ》のために斃《たお》れたので、定雄は父の死に目にも逢っていなかった。父が死んでから十年目に、彼は先輩や知人たちと飛行機で京城まで飛んだことがあったが、そのときも機が京城の空へさしかかると、まだそのあたりの空気の中に、父がうろうろさ迷っているように思われて、涙が浮き上って来たのを彼は思い出した。
 ようやく長い誦経がすんで、一同は広い高縁に立つと、陽《ひ》のさしかかって来た市街が一望の中に見渡された。
「さアさア、これで役目もすみましたよ」
 そういう姉の後から、千枝子もショールを拡げながら、「ほんとに、これで晴晴しましたわ」と云って高縁の段を降りた。
 後はもう定雄は家内一同をつれて、勝手にどこへでも行けば良かった。
 次ぎの日から彼は子供を姉に預け、千枝子と二人で大阪と奈良へ行った。それをすますと見残した京都の名所を廻って、最後に比叡山越しに大津に出てみようと定雄は思った。大津は彼が最初に学校へ行った土地でもあり、殊《こと》に六年を卒業するときに植えた小さな自分の桜が二十年の間に、どれほど大きくなっているか見たかった。
 比叡登りの日には、毎日歩き廻ったため定雄も千枝子も相当に疲れていたが、次男を姉の家に残して清をつれ、ケーブルで山に登った。定雄は比叡山へは小学校のときに大津から二度登った記憶があるが、京都からは初めてであった。千枝子はケーブルが動き出すと、気持ちが悪いと云って顔を少しも上げなかった。しかし、登るにつれて霞《かすみ》の中に沈んでいく京の街の瓦《かわら》は美しいと定雄は思った。
「見なさい。飛行機に乗ると丁度こんなだ」と定雄は清の肩を掴《つか》まえて云った。
 終点で降りてから頂上へ出る道が二つに別れていたので、定雄は先きに立って広場の中を突きぬけて行くと、道は林の中へ這入《はい》ってしまってだんだんと下りになった。
「こりゃおかしい。間違ったぞ」
 定雄は道を訊《き》き正そうにも通行人がいないのでまた後へ引き返した。千枝子は常常から京大阪ならどこでも知っている顔つきの定雄の失敗に、
「だから、豪そうな顔はするもんじゃありませんわ」と云ってやりこめた。
 雪解けでびしょびしょの道をようやくもとへ戻ると、一組の他の人達と一緒になったのでその後から定雄たちもついていった。細い山道は陽のあった所を解け崩《くず》しながらも、山陰は残雪で踏む度に草履が鳴った。千枝子はときどき立ち停って、まだ雪を冠《かぶ》っている丹波《たんば》から摂津へかけて延びている山山の峰を見渡しながら、
「おお綺麗《きれい》だ綺麗だ」と感歎しつづけた。
 七八町も歩くと、また針金に吊《つ》るされた乗物で谷を渡らねばならなかったが、これはケーブルよりも一層乗り工合が飛行機に似ていた。
「この方が飛行機に似ているよ」
「これなら気持ちがいいけど、ケーブルは何んだかいやだわ」
 そう云う千枝子に抱きかかえられている清は、
「ほらほら、また来た」と突然叫んで前方を指差した。
 見ると向うから新しく仕立てて来た車が、こちらを向って浮いて来た。皆がしばらく口をぼんやり開《あ》けてその車の方を面白そうに眺めていた。するとその途
前へ 次へ
全6ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
横光 利一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング