来なくなると、彼は一人国境の方へ偵察兵を迎いに馬を走らせた。
或《あ》る日、長羅は国境の方から帰って来ると、泉の傍に立っていた兵部の宿禰の子の訶和郎《かわろ》が彼の方へ進んで来た。彼は長羅の馬の拡った鼻孔を指差して彼にいった。
「王子よ、爾《なんじ》は爾の馬に水を飲ましめよ。爾の馬の呼吸は切れている。」
長羅は彼に従って馬から降りた。そのとき、一人の乙女《おとめ》が垂れ下った柳の糸の中から、慄《ふる》える両腕に水甕《みずがめ》を持って現れた。それは兵部の宿禰の命を受けた訶和郎の妹の香取《かとり》であった。彼女は美しく装いを凝《こら》した淡竹色《うすたけいろ》の裳裾《もすそ》を曳《ひ》きながら、泉の傍へ近寄って水を汲んだ。彼女の肩から辷《すべ》り落《お》ちた一束の黒髪は、差し延べた白い片腕に絡《から》まりながら、太陽の光りを受けた明るい泉の水面へ拡った。長羅は馬の手綱《たづな》を握ったまま彼女の姿を眺めていた。彼女は汲み上げた水壺の水を長羅の馬の前へ静《しずか》に置くと、赧《あか》らめた顔を俯向《うつむ》けて、垂れ下った柳の糸を胸の上で結び始めた。
やがて、馬は水甕の中から頭を上げ
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