馬爪《ばづ》で作った酒盞を長羅の方へ差し延べた。何ぜなら、彼の胸中に長く潜《ひそ》まっていた最大の希望は、今|漸《ようや》く君長の唇から流れ出たのであったから。
 しかし、長羅の頭首《こうべ》は重く黙って横に振られた。彼の眼の向けられた彼方では、松明の一塊が火串《ほぐし》の藤蔓《ふじかずら》を焼き切って、赤々と草の上へ崩れ落ちた。一疋の鹿は飛び上った。そうして、踊の中へ角を傾けて馳け込んだ。
「父よ、我は臥所《ふしど》を欲する。我を赦《ゆる》せ。」
 長羅は一人立ち上って櫓を降りた。彼は人波《ひとなみ》の後をぬけ、神庫の前を通って暗い櫟《いちい》の下まで来かかった。そのとき、踊りの群《むれ》から脱《ぬ》け出《だ》した一人の女が、彼の後から馳《か》けて来た。彼女は大夫の若い妻であった。
「待て、王子よ。」と彼女はいった。
 長羅は立ち停って後を向いた。
「我は爾の帰るを、月と星とに祈っていた。」
 長羅は黙って再び母屋《もや》の方へ歩いていった。
「待て、王子よ、我は夜の来る度に爾の夢を見た。」
 しかし、長羅の足はとまらなかった。
「ああ、王子よ。爾は我に言葉をかけよ。爾はわれを森へ伴
前へ 次へ
全116ページ中19ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
横光 利一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング