はなおも反耶の上に飛びかかろうとして片膝を立てたとき、卑弥呼は反耶と反絵の間へ割り込んで、倒れた反耶をひき起した。反耶は手に持った酒盃を反絵の額へ投げつけた。
「去れ。去れ。」
 反絵は再び反耶の方へ飛びかかろうとした。卑弥呼は彼の怒った肩に手をかけた。そうして、転っている酒盃を彼の手に握らせて彼女はいった。
「やめよ、爾はわれの酒盃をとれ。われに耶馬台の歌をきかしめよ。われは不弥の歌を爾のために歌うであろう。」
「卑弥呼。われは耶馬台の兵を動かすであろう。耶馬台の兵は、兄の命よりわれの力を恐れている。」
「爾の力は強きこと不弥の牡牛《おうし》のようである。われは爾のごとき強き男を見たことがない。」と卑弥呼はいって反絵の酒盃に酒を注《そそ》いだ。
 反絵の顔は、太陽の光りを受けた童顔のように柔《やわら》ぐと、彼は酒盃から酒を滴《したた》らしながら勢いよく飲み干した。しかし、卑弥呼は、彼女の傍で反絵を睨《にら》みながら唇を噛み締めている反耶の顔を見た。彼女は再び柄杓《ひしゃく》の酒を傍の酒盃に満して彼の方へ差し出した。そうして、彼女は左右の二人の酒盃の干される度に、にこやかな微笑を配りながらその柄杓を廻していった。間もなく、反絵の片眼は赤銅《しゃくどう》のような顔の中で、一つ朦朧《もうろう》と濁って来た。そうして、王の顔は渋りながら眠りに落ちる犬のように傾き始めると、やがて彼は卑弥呼の膝の上へ首を垂れた。卑弥呼は今はただ反絵の眠入《ねい》るのを待っていた。反絵は行器《ほかい》の中から鹿の肉塊を攫《つか》み出すと、それを両手で振り廻して唄《うた》を歌った。卑弥呼は彼の手をとって膝の上へ引き寄せた。
 外の草園では焚火の光りが薄れて来た。草叢のあちこちからは酔漢の呻《うめ》きが漏れていた。そうして、次第に酒宴の騒ぎが宮殿の内外から鎮《しずま》って来ると、やがて、卑弥呼の膝を枕に転々としていた反絵も眠りに落ちた。卑弥呼は部屋の中を見廻した。しかし、一人として彼女のますます冴《さ》え渡《わた》ったその朗《ほがらか》な眼を見詰めている者は誰もなかった。ただ酒気と鼾声《かんせい》とが乱れた食器の方々から流れていた。彼女は鹿の肉塊を冠《かぶ》って眠っている反絵の顔を見詰めていた。今や彼女には、訶和郎《かわろ》のために復讐する時が来た。剣《つるぎ》は反絵の腰に敷かれてあった。そうして彼女の第二の夫《つま》を殺害した者は彼女の膝の上に眠っていた。しかし、反絵のその逞《たくま》しい両肩の肉塊と、その狂暴な力の溢れた顎《あご》とに代って、奴国に攻め入る者は、彼の他の何者が何処《いずこ》の国にあるであろう。やがて、彼のために長羅《ながら》の首は落ちるであろう。やがて、彼女は不弥と奴国と耶馬台の国の三国に君臨するであろう。そうして、もしその時が来たならば、彼女は更に三つの力を以て、久しく攻伐し合った暴虐な諸国の王をその足下に蹂躙《じゅうりん》するときが来るであろう。彼女の澄み渡った瞳《ひとみ》の底から再び浮び始めた残虐な微笑は、静まった夜の中をひとり毒汁のように流れていた。
「ああ、地上の王よ、我を見よ。我は爾らの上に日輪の如く輝くであろう。」
 彼女は膝の上から反絵と反耶の頭を降ろして、静《しずか》に彼女の部屋へ帰って来た。しかし、彼女はひとりになると、またも毎夜のように、幻《まぼろし》の中で卑狗《ひこ》の大兄《おおえ》の匂を嗅《か》いだ。彼は彼女を見詰めて微笑《ほほえ》むと、立ちすくむ小鳥のような彼女の傍へ大手を拡げて近寄って来た。
「卑弥呼。卑弥呼。」
 彼女は卑狗の囁《ささやき》を聞きながら、卑狗の波打つ胸の力を感じると、崩れる花束のように彼の胸の中へ身を投げた。
「ああ、大兄、大兄、爾は何処へ行った。」
 彼女の身体は毛皮の上に倒れていた。しかし、その時、またも彼女の怨恨は、涙の底から急に浮び上った仇敵《きゅうてき》の長羅に向って猛然と勃発した。最早や彼女は、その胸に沸騰する狂おしい復讐の一念を圧伏していることが出来なくなった。
「大兄を返せ、大兄を返せ。」
 彼女は立ち上った。そうして、きりきりと歯をきしませながら、円木《まろき》の隙に刺された白鷺の尾羽根を次ぎ次ぎに引き脱いては捨てていった。しかし、再び彼女は彼女を呼ぶ卑狗の大兄の声を聞きつけた。彼女の身体は呆然《ぼうぜん》と石像のように立ち停り、風に吹かれた衣のように円木の壁にしなだれかかると、再び抜き捨てられた白鷺の尾羽根の上へどっと倒れた。
「ああ、大兄、大兄、爾は我を残して何処《いずこ》へ行った。何処へ行った。」

       二十三

 反耶《はんや》は夜中眼が醒《さ》めると、傍から不弥《うみ》の女が消えていた。そうして、彼の見たものは自分の片手に握られた乾いた一つの酒盃と、肉塊
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