に出よ。」反絵は再び卑弥呼の傍へ戻って来た。
「王よ、我を酒宴に伴うことをやめよ。爾は我と共に我の部屋にとどまれ。」
 卑弥呼は反耶の手を取ってその傍に坐らせた。
「不弥の女、不弥の女。」
 反絵は卑弥呼を睨《にら》んで慄《ふる》えていた。「爾は我と共に部屋を出よ。」
 彼は彼女の腕を掴《つか》むと部屋の外へ出ようとした。
 反耶は立ち上って曳《ひ》かれる彼女の手を持って引きとめた。
「不弥の女、行くことをやめよ。我とともにいよ。我は爾の傍に残るであろう。」
 反絵は反耶の胸へ飛びかかろうとした。そのとき、卑弥呼は傾く反絵の体躯をその柔き掌《てのひら》で制しながら反耶にいった。
「王よ、使部の傍へわれを伴え、我は彼らを赦すであろう。」
 彼女は一人先に立って遣戸の外へ出て行った。反絵と反耶は彼女の後から馳け出した。しかし、彼らが庭園の傍まで来かかったとき、五人の使部は、最早や死体となって土に咬《か》みついたまま横たわっていた。兵士たちは王の姿を見ると、打ち疲れた腕に一段と力を籠《こ》めて、再び意気揚々としてその死体に鞭を振り下げた。
「鞭を止めよ。」と、反耶はいった。
「王よ、使部は死んでいる。」と一人の兵士は彼にいった。卑弥呼は振り向いて反絵の胸を指差した。
「彼らを殺した者は爾である。」
 反絵は言葉を失った唖者《あしゃ》のように、ただその口を動かしながら卑弥呼の顔を見守っていた。
「来れ。」
 と反耶は卑弥呼にいった。そうして、卑弥呼の手をとると、彼は彼女を酒宴の広間の方へ導いていった。
「待て、不弥の女、待て。」と反絵は叫びながら二人の後を追いかけた。

       二十二

 卑弥呼《ひみこ》は竹皮を編んで敷きつめた酒宴の広間へ通された。松明《たいまつ》の光に照された緑の柏《かしわ》の葉の上には、山椒《さんしょう》の汁で洗われた山蛤《やまがえる》と、山蟹《やまがに》と、生薑《しょうが》と鯉《こい》と酸漿《ほおずき》と、まだ色づかぬ※[#「けものへん+爾」、第4水準2−80−52]猴桃《しらくち》の実とが並んでいた。そうして、蓋《ふた》のとられた行器《ほかい》の中には、新鮮な杉菜《すぎな》に抱かれた鹿や猪の肉の香物《こうのもの》が高々と盛られてあった。その傍の素焼の大きな酒瓮《みわ》の中では、和稲《にぎしね》製の諸白酒《もろはくざけ》が高い香を松明の光の中に漂《ただよ》わせていた。最早《もは》や酔の廻った好色の一人の宿禰は、再び座についた王の後で、侍女の乳房の重みを計りながら笑っていた。卑弥呼は盃《さかずき》をとりあげた王に、柄杓《ひしゃく》をもって酒を注ごうとすると、そこへ荒々しく馳けて来たのは反絵であった。彼は王の盃を奪いとると卑弥呼にいった。
「不弥の女、使部を殺した者は兄である。爾《なんじ》はわれに酒を与えよ。」
「待て、王は爾の兄である。盃を王に返せ。」と卑弥呼はいって、彼女は差し出している反絵の手から、柔《やわらか》にその盃を取り戻した。「王よ、我を耶馬台にとどめた者は爾である。今日より爾は爾の傍に我を置くか。」
「ああ、不弥の女。」と反耶はいって、彼女の方へ手を延ばした。
「王よ。爾は不弥の国の王女を見たか。」
「盃をわれに与えよ。」
「王よ。我は不弥の国の王女である。我の玉を爾は受けよ。」
 卑弥呼は首から勾玉《まがたま》をとり脱《はず》すと、瞠若《どうじゃく》として彼女の顔を眺めている反耶の首に垂れ下げた。
「王よ。我は我の夫と奴国《なこく》の国を廻って来た。奴国の王子は不弥の国を亡した。爾は我を愛するか。我は不弥の王女卑弥呼という。」
「ああ、卑弥呼、我は爾を愛す。」
「爾は奴国を愛するか。」
「我は爾の国を愛す。」
「ああ、爾は不弥の国を愛するか。もし爾が不弥の国を愛すれば、我に耶馬台の兵を借せ。奴国は不弥の国の敵である。我の父と母とは奴国の王子に殺された。我の国は亡びている。爾は我のために、奴国を攻めよ。」
「卑弥呼。」と横から反絵はいった。そうして、突き立ったまま彼女の前へその顔を近づけた。
「我は奴国を攻める。我は兄が爾を愛するよりも爾を愛す。」
「ああ、爾は我のために奴国を撃《う》つか。坐れ、我は爾に酒を与えよう。」
 卑弥呼は王に向けていたにこやかな微笑を急に反絵に向けると、その手をとって坐らせた。反耶の顔は、喜びに輝き出した反絵の顔にひきかえて顰《ゆが》んで来た。
「卑弥呼、耶馬台の兵は、われの兵である。反絵は我の一人の兵である。」と反耶はいった。
 反絵の顔は勃然《ぼつぜん》として朱《しゅ》を浮べると、彼の拳《こぶし》は反耶の角髪《みずら》を打って鳴っていた。反耶は頭をかかえて倒れながら宿禰を呼んだ。
「反絵を縛《しば》れ。宿禰、反絵を殺せ。」
 しかし、一座の者は酔っていた。反絵
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